小倉落城
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長州征討では、小倉藩は征討軍の九州側最先鋒として第一次、第二次ともに参加した。元治元年(1864年)の第一次長州征討では長州藩が江戸幕府に対する恭順を示し、戦闘は発生しなかったが、翌慶応元年(1865年)の第二次長州征討(四境戦争)では、小倉藩は征長総督の老中小笠原長行の指揮下で小倉口の先鋒として参戦した。この戦闘は幕府・小倉藩に不利に展開し、長州軍の領内侵攻により門司が制圧されると、小笠原総督は事態を収拾することなく戦線を離脱し、他の九州諸藩も軒並み撤兵に転じた。孤立した小倉藩は慶応2年(1866年)8月1日小倉城に火を放ち、田川郡香春(現香春町)に撤退した。その後も、家老島村志津摩を中心に軍を再編して企救郡南部の金辺峠及び狸山に防衛拠点を築き、高津尾を前線基地として長州軍に遊撃戦を挑み、一時は小倉城を奪還するに至った。しかし、同年10月には他戦線での停戦成立に伴って長州側の兵力が増強されると、次第に圧迫されるようになり、多くの防衛拠点が失われるに及んで、停戦交渉が開始された。交渉は困難を伴い、講和締結は翌慶応3年(1867年)1月20日となった。この講和条件の一つとして、企救郡については、長州征討の根拠の一つであった長州藩主父子の罪が解かれるまでの間、長州藩が「預り」として引き続き占領下に置くこととされたため、小倉藩は企救郡を回復することができなかった。その上、実際には長州藩主父子が朝敵の罪を赦免され、再び官位を得た後も企救郡は小倉藩に返還されず長州藩支配下に置かれ続け、明治2年(1869年)に至って日田県の管轄に移されることとなる。 慶応3年3月に藩庁を正式に香春へ移転。この香春に藩庁を置いている時期は、後年香春藩(かわらはん)と呼ばれるようになる。さらに明治2年12月24日には京都郡豊津(現みやこ町)に藩庁を移して豊津藩(とよつはん)となった。その際に藩庁として建設された豊津陣屋の遺構として藩校表門が現存している。
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