小倉落城とは? わかりやすく解説

小倉落城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/08 02:36 UTC 版)

小倉藩」の記事における「小倉落城」の解説

長州征討では、小倉藩征討軍の九州側最先鋒として第一次第二次ともに参加した元治元年1864年)の第一次長州征討では長州藩江戸幕府対す恭順示し戦闘発生しなかったが、翌慶応元年1865年)の第二次長州征討四境戦争)では、小倉藩は征長総督老中小笠原長行指揮下で小倉口の先鋒として参戦した。この戦闘幕府小倉藩不利に展開し長州軍の領内侵攻により門司制圧されると、小笠原総督事態収拾することなく戦線離脱し、他の九州諸藩軒並み撤兵転じた孤立した小倉藩慶応2年1866年8月1日小倉城火を放ち田川郡香春(現香春町)に撤退したその後も、家老島村志津摩を中心に軍を再編し企救郡南部金辺峠及び山に防衛拠点築き高津尾前線基地として長州軍に遊撃戦挑み一時小倉城奪還する至った。しかし、同年10月には他戦線での停戦成立伴って長州側の兵力増強されると、次第圧迫されるようになり、多く防衛拠点失われる及んで停戦交渉開始された。交渉は困難を伴い講和締結は翌慶応3年1867年1月20日となった。この講和条件一つとして企救郡については、長州征討根拠一つであった長州藩主父子の罪が解かれるまでの間、長州藩が「預り」として引き続き占領下に置くこととされたため、小倉藩企救郡回復することができなかった。その上実際に長州藩主父子朝敵の罪を赦免され、再び官位得た後も企救郡小倉藩返還され長州藩支配下置かれ続け明治2年1869年)に至って日田県管轄移されることとなる。 慶応3年3月藩庁正式に香春移転。この香春藩庁置いている時期は、後年香春藩(かわらはん)と呼ばれるうになる。さらに明治2年12月24日には京都郡豊津(現みやこ町)に藩庁移して豊津藩(とよつはん)となったその際藩庁として建設され豊津陣屋遺構として藩校表門現存している。

※この「小倉落城」の解説は、「小倉藩」の解説の一部です。
「小倉落城」を含む「小倉藩」の記事については、「小倉藩」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「小倉落城」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「小倉落城」の関連用語

小倉落城のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



小倉落城のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの小倉藩 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS