小倉縮について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/20 03:55 UTC 版)
小倉縮は、寛永9年より小笠原家が明石から小倉に移封されたとき製法を移入した「明石縮」を手本に製造しはじめたもので、最初は藩中婦女子の内職として織られ、小笠原家から親族諸侯への進物用にされた。明治になって神多安兵衛が生産に本腰を入れ博覧会、展覧会でしばしば入賞するようになって生産はぐっとのび、1936年、1937年(昭和11年、12年)ごろは、当時の価格で年産200万円に達し西陣、足利、十日町各地で類似品を生産しはじめた。しかし太平洋戦争がはじまり、企業整備が深刻化するとともに昭和十七年、小倉縮もついに工場を閉鎖、終戦後もコスト高などの理由で再開にいたらず市場から完全に姿を消してしまった。 二代目・神田安兵衛(本名・梅吉)は、幼少より家業の呉服店に従う傍ら、小倉織、小倉縮の製織販売に従事、織物業界に貢献するところ少なからず、産業功労汎くその名を知らるるとともに小倉縮の名声を全国に博するに至った。1887年(明治20年)市内に集団織工場を設置し織婦の養成に努めた。その製品は内国勧業博覧会、共進会等において毎に金銀牌受賞の誉を受けていた外、1911年(明治44年)には明治天皇の、大正五年には大正天皇の九州行幸に際し天覧御買上の栄に浴している。越えて1918年(大正7年)市外富野に小倉縮織方講習所を設けて織婦の養成に尽くしたが、後年小倉縮織工場設置の先駆であった。1919年(大正8年)県知事より産業功労者として表彰された。
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