小倉製紙所時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/05 03:50 UTC 版)
千寿製紙が経営に行き詰っていたころ、磯村音介という実業家が会社から工場を借り受け、1907年1月から個人経営の「小倉製紙所」として経営を始めた。一方、千寿製紙に資金を貸し付けていた日本勧業銀行の申し立てにより、千寿製紙の資産は裁判所の手で競売にかけられた。競売は1908年6月24日に執行され、創立以来会社に投資していた蜂須賀家が落札、1909年5月に磯村から引き継いで蜂須賀家の経営に移った。 その後は順調な経営が続いたことから、1912年7月3日、資本金100万円で株式会社小倉製紙所に改組した。1914年10月、1917年4月と2度にわたって抄紙機を新設し、抄紙機の台数は千寿製紙時代に稼動したものも含めて計4台となった。1921年に500万円に増資するが、第一次世界大戦後の不況期になって採算が悪化したため、王子製紙と合併した。合併手続きは1924年4月18日に完了し、小倉製紙所の工場は王子製紙の小倉工場となった。なお、王子製紙とは合併前から技術交換を行うなど関係を持っていた。 小倉工場はその後太平洋戦争中も稼動し、戦後1949年8月の王子製紙解体に際しては十條製紙(現・日本製紙)へと継承された。しばらく十條製紙によって操業を続けたが、八代工場(熊本県八代市、日本製紙八代工場として操業中)への設備移設に伴い、1966年11月20日に閉鎖された。
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