千寿製紙時代とは? わかりやすく解説

千寿製紙時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/05 03:50 UTC 版)

小倉製紙所」の記事における「千寿製紙時代」の解説

小倉製紙所前身である千寿製紙は、東京洋紙商らを中心に企画され会社である。丹後国京都府出身ながら徳島藩となった経歴のある実業家小室信夫参画し、旧徳藩主蜂須賀侯爵家(当主蜂須賀茂韶)の協力得て設立出願した1887年12月のことである。翌1888年2月1日に、会社設立許可受けた社長に小室就任した工場用地東京千住予定していたため、地名にちなんで「千寿」という社名命名していた。ところが、一旦決定した工場用地再調査すると、製紙工場には適さない判明したこのため会社工場用地調査新たに始め山口県福岡県訪問した最終的に門司港近接し将来的中国・朝鮮輸出する場合に便が良く水質がよい紫川のほとりの、福岡県企救郡西紫村大字篠崎中島(現・北九州市小倉北区中島)を工場用地選定した本社東京市京橋区本材木町三丁目現・東京都中央区京橋)に置いた工場にはイギリスから輸入した抄紙機1台を設置し1890年11月3日試運転行い、翌1891年4月11日より操業開始した開業後の業績は順調に推移し1897年12月抄紙機を1台増設した。 1893年12月8日有限責任千寿製紙会社から千寿製紙株式会社社名変更したあわせて工場名も紫川工場から小倉工場となった会社では、生産過程使用する水酸化ナトリウム苛性ソーダ)を山口県日本舎密製造(現・日産化学工業小野田工場)から供給受けていた。これを自給すべく、1901年4月苛性ソーダ工場新設する。ところがこの事業資金浪費するのみで失敗終わり資金難陥った千寿製紙は、その後解散する至った

※この「千寿製紙時代」の解説は、「小倉製紙所」の解説の一部です。
「千寿製紙時代」を含む「小倉製紙所」の記事については、「小倉製紙所」の概要を参照ください。

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