四境戦争とは? わかりやすく解説

四境戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 00:51 UTC 版)

高杉晋作」の記事における「四境戦争」の解説

再度長州征討備え晋作防衛態勢強化進めた慶応2年1866年1月21日一説には1月22日)、彼が桂小五郎(後の木戸孝允)・井上聞多伊藤俊輔たちとともに進めていた薩長盟約土佐藩坂本龍馬中岡慎太郎土方久元仲介によって京都薩摩藩邸で結ばれた5月伊藤俊輔とともに薩摩行き命じられ、その途次長崎蒸気船丙寅丸」(オテントサマ丸)を購入している。 6月第二次長州征伐(四境戦争)では海軍総督として丙寅丸」に乗船し戦闘指揮を執った。屋代島周防大島)沖で幕府艦隊夜襲してこれを退け林半七率い第二奇兵隊などと連絡して周防大島奪還している。小倉方面では艦砲射撃援護のもと奇兵隊報国隊を門司田ノ浦上陸させて幕府軍敗走させている。その後小倉城近くまで進撃したものの、肥後藩細川家軍勢撃退され戦況停滞した。 しかし、7月20日将軍徳川家茂死去すると、7月30日には肥後藩久留米藩柳川藩唐津藩中津藩撤兵幕府軍総督小笠原長行海路小倉から離脱残され小倉藩8月1日小倉城火を放ち逃走したため、幕府軍敗北決定的となった幕府権威大きく失墜し、翌慶応3年1867年11月大政奉還へとつながることとなったその後下関市桜山肺結核療養中慶応3年4月13日1867年5月16日深夜死去享年29(満27歳8ヶ月)。なお墓碑銘などで命日14日とされているのは、長男之進に谷家相続させるために時間必要だったためと考えられる臨終には父・母・妻と息子がかけつけ野村望東尼山県狂介田中顕助立ち会ったとされる(ただし田中自身当日は京にいたと日記記している)。 栄典は贈正四位1891年明治24年4月8日)。

※この「四境戦争」の解説は、「高杉晋作」の解説の一部です。
「四境戦争」を含む「高杉晋作」の記事については、「高杉晋作」の概要を参照ください。

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