第二次長州征伐とは? わかりやすく解説

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第二次長州征伐 (だいにじちょうしゅうせいばつ)


第二次長州征伐

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/18 06:13 UTC 版)

奇兵隊」の記事における「第二次長州征伐」の解説

翌、元治2年1865年)、幕府によって再び第二次長州征伐(四境戦争長幕戦争が行われたものの、木戸孝允大村益次郎高杉晋作山田顕義指揮の下、奇兵隊ほか諸隊幕府軍圧倒し江戸幕府に完全勝利した第15代将軍徳川慶喜名代として長州藩講和するため安芸広島県)までやって来た幕閣は、後に明治政府参議一人となる勝麟太郎勝海舟であった慶応2年1866年1月21日長州藩薩摩藩倒幕長州雪冤方針薩長同盟締結する慶応3年10月14日1867年11月9日)、大政奉還慶応3年12月9日1868年1月3日)、朝廷より、江戸幕府廃止明言した王政復古の大号令が発せられた。奇兵隊ほか長州藩諸隊新政府軍一部となり、旧幕府軍との戊辰戦争で戦うことになる。また、この頃周防地区では第二奇兵隊南奇兵隊)も作られている。 奇兵隊身分制度とらわれない武士階級農民町人混合され構成であるが、袖印による階級区別はされていた。また、奇兵隊には被差別部落民取り入れられていた。当初これらの賤民層は屠勇隊として分離され奇兵隊とは別に扱われていたが、その後彼等奇兵隊組み入れられ事となった。 隊士には藩庁から給与支給され隊士は隊舎で起居し、蘭学兵学者大村益次郎の下で訓練励んだこのためいわゆる民兵組織ではなく長州藩正規常備軍である。奇兵隊は、総督頂点に、銃隊や砲隊などが体系的に組織された。高杉は、泰平の世で貴族化して堕落した武士よりも志をもった彼らの方が戦力になると考えていたとされる隊士らは西洋式兵法をよく吸収しミニエー銃当時最新兵器スナイドル銃取り扱い戦果上げた奇兵隊には統一され西洋的な軍服イメージがあるが、当初からそうだったわけではなく結成から最初1年ほどは服装明確な基準がなかった。元治元年(1864年)にはじめて胴着に袴の和装軍服定められ軍服用い生地や色には身分ごとに細かな定め設けられていた。慶応元年1865年)、藩は、軍服生地輸入毛織物使用することを規則として認めた和装から洋装変化したのは慶応3年1867年9月になってのことであるが、この段階でも使用する生地身分であった画期となったのは慶応4年1868年6月のことで、この時に軍服羅紗生地統一され以降、全兵士身分に関係なく同じ軍服で戦うことになった

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第二次長州征伐

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 12:14 UTC 版)

鳥羽・伏見の戦い」の記事における「第二次長州征伐」の解説

1865慶応1)年、討幕派の長州藩士高杉晋作が自らの創設した奇兵隊功山寺挙兵起こし山口藩庁を武力クーデターのっとる幕府軍反抗、続く1866年慶応2年6月7日から始まった第二次長州征討最中、同20日薩摩藩主・島津久光島津忠義父子連名内覧左大臣関白二条斉敬へ第二次長州征伐の継続反対する建白書提出した朝議紛糾するなか、三回目8月4日)の朝議召し出され禁裏御守衛総督将軍後見職徳川慶喜は、予てから腹案として温めてきた王政復古のもとでの議会主義大政奉還後の諸侯会議政体論、朝廷での諸大名合議制)に則り長州藩への朝廷からの寛大な処置と、諸侯会議による国事議決願ったが、孝明天皇幕府徳川家政体)へ長州征伐継続求め続けた同月幕府長州征伐継続費用確保するためイギリスオリエンタル・バンク600ドル借款契約締結していた。8日前将軍家茂名代として出陣すべき慶喜朝廷参内し孝明天皇から天盃節刀賜ったが、いよいよ進発になろうという時、肥後藩主・細川韶邦らはじめ、討伐する側がみなおびえてしまった報せ届いた慶喜はみな兵隊解散してしまってはいくら節刀を賜っても征伐の功を為すわけにはいかない熟慮し王政復古議会主義則り薩摩藩主の父・島久光、前越前藩主・松平春嶽、前宇和島藩主・伊達宗城、前土佐藩主・山内容堂などを残らず呼び寄せ、私を棄ててひとつ国家為公明正大に評議尽してみたい、とのちの四侯会議考え水戸藩士一橋徳川家臣の側近梅沢孫太郎使者に、国家大本について相談したいことがあるから至急京都来てもらいたい伝えさせた。また慶喜は、「よく考えてみると自分別に長州憎んでいるわけではなく会津藩桑名藩らはじめ旗下の者もひたすら長州憎しどこまでもやってしまおうというのではない。ただ、禁門の変で同藩士らがが錦旗朝廷天皇)に発砲したとはいうものの決し主人毛利藩主)の命令というわけではないだろうし、雪冤を望む尊攘の志からやむを得ずおこなったことでもあろうから、その筋さえ立てればどのように寛大にしてもよい」と思い長州藩側に懇意な者がいる幕臣勝海舟呼び、彼を交渉役として長州藩占領済みの場を譲って国許へ兵を引けば長州大人しい者だ」との名分が立つので、その意をくんで幕府軍敵方寛大に処することで平和裏終戦結ぼうとした。勝が交渉終えて慶喜のもとへ帰ってくると、「談判相手長州藩士広沢真臣らから丁寧に取り扱われ長州側は話を聞いて誠に喜びました」といい、長州藩も兵を引きましょうという事になり、ほとんどの兵らを占領地から引いた慶喜14日二条出陣見合わせる内願を提出16日勅許された。[要出典] 20日大坂城将軍・家茂が20歳薨去した。22日孝明天皇将軍・家茂の薨去により、上下親王から庶民まで)が哀しむ情を察し長州征伐一時休止させる勅を出し慶喜ら征長軍へしばらく戦を休ませたが、同時に長門国周防国支配する長州藩隣国境界侵略した地域早々に引き払い鎮定するよう取り計らってほしい。また長州藩朝命に逆らうようなら早々に討ち入りしてほしい」との国書第二次征長軍の先鋒総督紀伊藩主・徳川茂承へ送った。 この長州征討失敗は、幕藩体制限界弱体化白日のもとに晒し幕府威信大きく低下させた。

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第二次長州征伐

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/24 09:17 UTC 版)

飛龍丸」の記事における「第二次長州征伐」の解説

元来商船であったが、第二次長州征討に際して小倉藩砲術方・門田栄の献策により砲2門を搭載船将丹村六兵衛指揮慶応2年(1866年)7月(旧暦、以下同様)門司赤坂の戦い参戦し上陸した長州軍勢への砲撃や、長州策源地見られ彦島への砲撃行っている。この戦い参戦した幕府所属艦(富士山丸回天丸等)は総指揮官の老中小笠原長行陸上砲台との交戦の不利を回避する姿勢だったのに対し、自領に侵攻されている小倉藩独自に本船使用して機動的に反撃実施した幕府所属艦の艦長らから本船対し命令に従うよう申し入れなされるほどだったという。 第二次長州征討敗戦により小倉藩極度財政難に陥り、本船修理費・年賦購入代金残金負担できなくなったことから、小倉藩本船幕府献上し、これらの費用幕府が代わって負担することとなった幕府側では80,000ドル購入として取り扱われた。

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