第二次長州征伐 (だいにじちょうしゅうせいばつ)
第二次長州征伐
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翌、元治2年(1865年)、幕府によって再び第二次長州征伐(四境戦争・長幕戦争)が行われたものの、木戸孝允・大村益次郎・高杉晋作・山田顕義の指揮の下、奇兵隊ほか諸隊が幕府軍を圧倒し、江戸幕府に完全勝利した。第15代将軍徳川慶喜の名代として長州藩と講和するため安芸(広島県)までやって来た幕閣は、後に明治政府で参議の一人となる勝麟太郎(勝海舟)であった。 慶応2年(1866年)1月21日、長州藩は薩摩藩と倒幕・長州雪冤の方針で薩長同盟を締結する。 慶応3年10月14日(1867年11月9日)、大政奉還。 慶応3年12月9日(1868年1月3日)、朝廷より、江戸幕府の廃止を明言した王政復古の大号令が発せられた。奇兵隊ほか長州藩諸隊は新政府軍の一部となり、旧幕府軍との戊辰戦争で戦うことになる。また、この頃、周防地区では第二奇兵隊(南奇兵隊)も作られている。 奇兵隊は身分制度にとらわれない武士階級と農民や町人が混合された構成であるが、袖印による階級区別はされていた。また、奇兵隊には被差別部落民も取り入れられていた。当初これらの賤民層は屠勇隊として分離され、奇兵隊とは別に扱われていたが、その後、彼等は奇兵隊に組み入れられる事となった。 隊士には藩庁から給与が支給され、隊士は隊舎で起居し、蘭学兵学者・大村益次郎の下で訓練に励んだこのため、いわゆる民兵組織ではなく長州藩の正規常備軍である。奇兵隊は、総督を頂点に、銃隊や砲隊などが体系的に組織された。高杉は、泰平の世で貴族化して堕落した武士よりも志をもった彼らの方が戦力になると考えていたとされる。隊士らは西洋式の兵法をよく吸収し、ミニエー銃や当時最新の兵器・スナイドル銃を取り扱い、戦果を上げた。 奇兵隊には統一された西洋的な軍服のイメージがあるが、当初からそうだったわけではなく、結成から最初の1年ほどは服装に明確な基準がなかった。元治元年(1864年)にはじめて胴着に袴の和装軍服が定められ、軍服に用いる生地や色には身分ごとに細かな定めが設けられていた。慶応元年(1865年)、藩は、軍服の生地に輸入毛織物を使用することを規則として認めた。和装から洋装へ変化したのは慶応3年(1867年)9月になってのことであるが、この段階でも使用する生地は身分別であった。画期となったのは慶応4年(1868年)6月のことで、この時に軍服が羅紗の生地で統一され、以降、全兵士が身分に関係なく同じ軍服で戦うことになった。
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