第二次長州征伐に於ける関わりとは? わかりやすく解説

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第二次長州征伐(幕長戦争)に於ける関わり

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 17:18 UTC 版)

浅野長勲」の記事における「第二次長州征伐幕長戦争に於ける関わり」の解説

慶応2年1866年5月広島藩第二次長州征伐大義がないと猛反対する。広島表に帯陣する老中小笠原壱岐守長行が、非戦論対峙する執政野村帯刀つづいて辻将曹謹慎申し渡した。 船越洋之助木原秀三郎など文武有志の士が母校である藩校学問所(現修道中学校・修道高等学校)に会し、「小笠原老中はわが藩の戦争回避の論言・忠告ことごとく無視し、そのうえ両執政謹慎処分与えた。これは広島藩主を飛び越えた処分で、藩政麻痺させた。もともと家茂将軍裁許もなく、私的な権威づけの独断処罰だ」と悲憤し、慷慨した。このさい小笠原老閣に挙(攻撃)あらんとす、とした。 それを知った茂勲は、広島城内の大広間全家臣を集めた時局に対して訓令したうえで、藩士たち各自挙動堅くこれを戒める。「小笠原暗殺するというのなら余がやる」。時局意見があるものは、この17日までに建白することを許す、と茂勲は申し渡した。 5月18日学問所会同55人は連署で、長勲建白書提出する広島藩出兵拒否要求し、かたや若公(茂勲)の命令があれば火の中、水の中、共に戦うと命を預けた若者暴走回避されたように思えたが、5月23日広島城下の町辻5か所に小笠原壱岐守と室賀伊予守暗殺予告張り紙出される。 「雲雨晦冥 日月光を失ふ 逆党小笠原壱岐守・室賀伊予守首級六月一日までに討取り神明正道に備へん」 広島藩浅野茂長(長訓)は、55人の若者たち要求する不参戦を受け入れて小笠原には身の安全が確保できない旨を申し渡し国外退去依頼した6月2日小笠原老中広島を去る。6月3日、茂長が小笠原後任松平老中に、広島藩先鋒拒否した6月4日には、藩主はふたたび征討不可論じ広島芸州)藩兵の出陣辞退幕府通告した6月8日第二次幕長戦争周防大島で始まる。

※この「第二次長州征伐(幕長戦争)に於ける関わり」の解説は、「浅野長勲」の解説の一部です。
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