第二次長州征伐(幕長戦争)に於ける関わり
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「浅野長勲」の記事における「第二次長州征伐(幕長戦争)に於ける関わり」の解説
慶応2年(1866年)5月、広島藩は第二次長州征伐に大義がないと猛反対する。広島表に帯陣する老中・小笠原壱岐守長行が、非戦論で対峙する執政野村帯刀、つづいて辻将曹に謹慎を申し渡した。 船越洋之助、木原秀三郎など文武有志の士が母校である藩校学問所(現修道中学校・修道高等学校)に会し、「小笠原老中はわが藩の戦争回避の論言・忠告もことごとく無視し、そのうえ両執政の謹慎処分を与えた。これは広島藩主を飛び越えた処分で、藩政を麻痺させた。もともと家茂将軍の裁許もなく、私的な権威づけの独断処罰だ」と悲憤し、慷慨した。このさいは小笠原老閣に挙(攻撃)あらんとす、とした。 それを知った茂勲は、広島城内の大広間に全家臣を集めた。時局に対して訓令したうえで、藩士たち各自の挙動は堅くこれを戒める。「小笠原を暗殺するというのなら余がやる」。時局に意見があるものは、この17日までに建白することを許す、と茂勲は申し渡した。 5月18日、学問所会同の55人は連署で、長勲に建白書を提出する。広島藩の出兵拒否を要求し、かたや若公(茂勲)の命令があれば火の中、水の中、共に戦うと命を預けた。 若者の暴走は回避されたように思えたが、5月23日、広島城下の町辻5か所に小笠原壱岐守と室賀伊予守の暗殺予告の張り紙が出される。 「雲雨晦冥 日月光を失ふ 逆党小笠原壱岐守・室賀伊予守の首級を六月一日までに討取り神明正道に備へん」 広島藩主浅野茂長(長訓)は、55人の若者たちが要求する不参戦を受け入れて、小笠原には身の安全が確保できない旨を申し渡し、国外退去を依頼した。6月2日、小笠原老中は広島を去る。6月3日、茂長が小笠原の後任の松平老中に、広島藩の先鋒を拒否した。6月4日には、藩主はふたたび征討の不可を論じ、広島(芸州)藩兵の出陣辞退を幕府に通告した。6月8日、第二次幕長戦争が周防大島で始まる。
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