第二次連合軍の編成と日本軍の参戦
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「義和団の乱」の記事における「第二次連合軍の編成と日本軍の参戦」の解説
義和団鎮圧のために軍を派遣した列強は八カ国あり、その内訳はイギリス、アメリカ、ロシア、フランス、ドイツ、オーストリア=ハンガリー、イタリアら欧米七列強と日本である。総司令官にはイギリス人のアルフレッド・ガスリー(英語版)が就任した。 日本の青木周蔵外相は、6月13日にイギリスの同意があるならば、日本は大軍を送る用意があるとの見解を表明した。ロシアが北清事変に便乗し、大軍勢を満洲に派遣した情勢に対し、ロシアの権益拡大を怖れるイギリス首相のソールズベリー卿は、日本に対して6月23日、7月5日、7月14日と再三にわたって出兵を要請した。また、2回目と3回目の出兵要請の際には、財政援助も申し入れている。7月5日の要請は特に、ソールズベリー侯が列国を代表するかたちでおこない、なおかつ、出兵可能な国は日本だけであり、反対する国は無いと明言したのであった。第2次山縣内閣はこの要請を受けて1900年7月6日に増派を決め、7月18日に大沽に上陸し、7月21日は天津に達した。なお、義和団鎮圧戦争の、兵力数に対する戦死者の千分比は、日本16.2人、ロシア10人強、イギリス6人であった。 総勢約2万人弱の混成軍であったが、最も多くの派兵をおこなったのは日本とロシアであった。これは日露以外の各国は、それぞれが抱える諸問題のため多くの兵力を送る余裕が無かったことに起因する。特にイギリスは南アフリカでオランダ系移民の子孫らの国であるオレンジ自由国及びトランスヴァール共和国との間で戦争状態(ボーア戦争)にあったため、多くの兵力を送る余裕がなく、日本に派兵を要請したことも日本の大量派兵の一因である。また、アメリカ合衆国は米比戦争を戦っていたため、イギリスと同様に派兵は少数にとどまった。 日本軍は陸軍大臣桂太郎の命の下、第五師団(およそ8,000名)を派兵し、その指揮は福島安正に委ねられた。彼は英語・フランス語・ドイツ語・ロシア語・中国語に堪能で、当時ロシアや清朝を調査する旅行から帰国したばかりであったが、その経験を買われて指揮官に据えられたのである。 この日本軍派兵には様々な思惑が込められていた。公使館の保護は無論であるが、清国における日本の権益拡大や、清朝を叩くことで朝鮮半島における日本のアドバンテージを確立すること、日本についで大軍を送っていたロシアへの牽制、列強側に立って派兵することで「極東の憲兵」としての存在感を誇示し、将来的な不平等条約改正への布石とするなどが主要な目的であった。
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