第二次連合軍の編成と日本軍の参戦とは? わかりやすく解説

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第二次連合軍の編成と日本軍の参戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 06:48 UTC 版)

義和団の乱」の記事における「第二次連合軍の編成と日本軍の参戦」の解説

義和団鎮圧のために軍を派遣した列強八カ国あり、その内訳はイギリスアメリカロシアフランスドイツオーストリア=ハンガリーイタリア欧米列強日本である。総司令官にはイギリス人のアルフレッド・ガスリー(英語版)が就任した日本青木周蔵外相は、6月13日イギリス同意があるならば、日本大軍を送る用意があるとの見解表明したロシア北清事変便乗し大軍勢を満洲派遣した情勢対しロシア権益拡大怖れるイギリス首相ソールズベリー卿は、日本に対して6月23日7月5日7月14日再三わたって出兵要請したまた、2回目3回目出兵要請の際には、財政援助申し入れている。7月5日要請は特に、ソールズベリー侯列国代表するかたちでおこないなおかつ出兵可能な国は日本だけであり、反対する国は無いと明言したであった第2次山縣内閣はこの要請受けて1900年7月6日増派決め7月18日大沽上陸し7月21日天津達した。なお、義和団鎮圧戦争の、兵力数に対す戦死者千分比は、日本16.2人、ロシア10人強、イギリス6人であった総勢2万人弱の混成であったが、最も多く派兵おこなったのは日本とロシアであった。これは日露以外の各国は、それぞれ抱え諸問題のため多く兵力を送る余裕無かったことに起因する。特にイギリス南アフリカオランダ系移民の子孫らの国であるオレンジ自由国及びトランスヴァール共和国との間で戦争状態(ボーア戦争にあったため、多く兵力を送る余裕がなく、日本派兵要請したことも日本大量派兵一因である。また、アメリカ合衆国米比戦争戦っていたため、イギリス同様に派兵少数とどまった日本軍陸軍大臣桂太郎の命の下、第五師団(およそ8,000名)を派兵し、その指揮福島安正委ねられた。彼は英語・フランス語ドイツ語ロシア語中国語堪能で、当時ロシア清朝調査する旅行から帰国したばかりであったが、その経験買われ指揮官据えられのである。 この日本軍派兵には様々な思惑込められていた。公使館保護無論であるが、清国における日本権益拡大や、清朝を叩くことで朝鮮半島における日本アドバンテージ確立すること、日本についで大軍送っていたロシアへ牽制列強側に立って派兵することで「極東憲兵としての存在感誇示し将来的不平等条約改正への布石とするなどが主要な目的であった

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