第二次遠征
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「モスクワ・リトアニア戦争 (1368年-1372年)」の記事における「第二次遠征」の解説
1370年にドイツ騎士団がルダウの戦いでリトアニアの大軍を撃破するとドミートリーは再びトヴェリを包囲してミハイルはリトアニアに亡命した。 クリスマスの斎期にアルギルダスは弟のケーストゥティス、ミハイル及びスヴャストラフ・イヴァノヴィチ (この遠征に加わったことでコンスタンティノープル総主教庁から破門されている。1386年にリトアニアとの戦いで戦死)を引き連れてモスクワへ進軍した。リトアニア軍はクレムリンへの攻撃の手始めとしてヴォロコラムスクを攻撃した。同都市を守るヴァシーリー・ベレズィスキー公はリトアニア軍の投げた槍で戦死したものの攻撃を撃退することが出来た。リトアニア軍は周囲を3日間略奪した後にモスクワへ向けて進軍した。12月6日にリトアニア軍はモスクワへの包囲を開始したが、この時にヴラディーミル勇敢公はペレミシュリにて軍を召集していたが、彼のもとにはヴラディーミル・ドミートリーヴィチ公とリャザン大公オレーグ・イヴァノヴィチの軍が合流した。一般的な見解では、アルギルダスはクレムリンを落とすことが出来ずに自身の娘とヴラディーミル勇敢公との結婚という形での和平を提案したものの、ドミートリーは 聖ペトロの日までの休戦のみに同意してアルギルダスはリトアニアに去ったとされる。 他方、16世紀半ばに執筆された年代記物である『ヴィホヴィエッツ年代記』にはこれとは異なる出来事の記述が含まれている。それによるとアルギルダスを撃退することが不可能であることを悟ったドミートリーはアルギルダスのもとに自身がモスクワから放逐されないようにすむようにとの嘆願と莫大な贈り物の約束、そして相手が望むもの全ての提供の旨をしたためた使者を遣わした。リトアニア大公はモスクワ大公が莫大な贈り物を持参したことからこれを許して現状を甘んじて受け入れ、それから馬にまたがってモスクワの壁に自身の槍を突き刺して大声で«モスクワ大公よ!このリトアニアの槍がモスクワに突き立っていることを覚えておくがいい»と叫んでから帰国した。それからモジャイスキイとコロムナの国境線を確固たるものとして莫大な戦利品と捕虜を伴ってリトアニアへ帰還した。
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第二次遠征
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/08 22:32 UTC 版)
このニュースを聞いたアントニオ・デ・メンドーサ副王は、修道士が非常に細かいところまで生々しく描写したその富を所有するために、すぐに大きな軍事遠征隊を組織した。副王の命令のもと、フランシスコ・バスケス・デ・コロナドが遠征隊を率い、マルコス・デ・ニサはそのガイドとなった。 コロナドは1540年4月22日に、クリアカンを少数の探検家の集団と共に出発した。陸路の遠征の大部分はトリスタン・デ・アレリャノが率いて、コロナドたちよりもゆっくりと進んだ。もう一方でフェルナンド・デ・アラルコンが率いる遠征隊が陸路の遠征隊に物資を供給するため、海路で出発した。 バスケス・デ・コロナドはソノラ州を通り抜け、現在のアリゾナ州に到着した。そこで、彼はズニのプエブロ集落に到着し、マルコス・デ・ニサの語った話は嘘で、修道士が描写したような財宝はないということを発見した。彼はまた、修道士の説明とは正反対に、海はその地域からの視界内にはなく、代わりに徒歩で多くの日を費やさなければならなかった。
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