同盟結成まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/21 02:59 UTC 版)
ペルシア戦争(第二次遠征)においては、紀元前480年のサラミスの海戦および紀元前479年のプラタイアの戦いによりペルシア軍が敗れて撤退し、ギリシアには(一時的に)平穏が訪れた。しかしペルシア軍の攻撃による被害の爪痕は各地に残り、ギリシアの人々の間にはペルシア軍の再来襲を危惧する懸念が広まっていた。 プラタイアの戦いで全ギリシア軍の総指揮を執っていたスパルタのパウサニアスの評判はあまり良くなく、傲慢とされた。またスパルタの監督官庁(エフォロイ)がペルシャとの内通をでっちあげて追放し死に追いやった。こうした背景から、ギリシア諸国の多くはスパルタに反発することとなった。他方、ペルシア軍の撃退で功績を挙げていたアテナイの評価は高まっており、その結果、ペルシアに対抗するための新同盟はアテナイを中心とするものとなった。 紀元前478年〜477年の冬にギリシア諸国の代表者がデロス島に集まり、そこでデロス同盟が正式に結成された。 結成当初の目的は対ペルシア軍事同盟であったが、紀元前449年に「カリアスの和約」が結ばれた後は対ペルシア軍事同盟としての意味を喪失する。その対策として、アテナイが保有する200隻の三段櫂船を輸送船として運用することにより、経済・文化交流の意味合いが加わってゆくことになる。
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