同盟破棄・信長包囲網
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 03:31 UTC 版)
元亀元年(1570年)、信長が徳川家康と共に琵琶湖西岸を通過し、若狭および越前の朝倉方の城の攻略に乗り出したところ、長政は突如同盟関係にある信長を裏切り、織田・徳川軍の背後から軍勢を攻めかからせた。予期せぬ長政の裏切りで窮地に陥った信長だったが、殿を務めた木下秀吉らの働きにより退却には成功した(金ヶ崎の戦い)。 この裏切りについては、信長も当初理由が分からず「虚説たるべき」ととりあわなかったが、現在においても理由は不明である。朝倉氏との同盟関係を重視したとの俗説が広く知られているが、これは江戸時代の創作物が由来であり、学術的にはこの裏切り以前における朝倉氏との同盟関係の存在は亮政・久政の代を通じて否定されているただし、この問題に関しては、前述のように、長政が六角氏から自立した際に義景と従属関係を結んだことによって初めて両氏の関係が結ばれたとする説も出されている。 敦賀への進軍に、主力である武将達は参加しておらず長政が居たという記録はない。また、そもそも織田と浅井の同盟自体が存在せず、金ヶ崎の戦いでの織田軍は、目的を達して凱旋中に浅井氏の挙兵を知ったという説もある。一方で、この戦い自体が若狭国の支配を巡って義景と対立を深めていた足利義昭による討伐の命令に基づくものであったとする説もあり、将軍の命令には従わざるを得なかった信長からすれば長政の行動は理不尽であったとする見方もある。 同年6月、長政は朝倉軍とともに、近江国・姉川で織田徳川連合軍と戦う(姉川の戦い)。結局この戦は、織田徳川連合軍の勝利に終わった。なお、当時浅井軍の足軽だった藤堂高虎は姉川の戦いに参戦し、織田軍に対し武功を上げて、長政から感状を送られている。 姉川の戦いの後、信長に脅威を覚えた三好三人衆や本願寺が挙兵し(野田城・福島城の戦い)、反信長の意志を表した(信長包囲網)。 9月、朝倉軍や延暦寺・一向宗徒と連携し、再び信長への攻勢を強め(志賀の陣)、坂本において森可成や織田信治らを討ち取る。だが、信長が足利義昭に和睦の調停を依頼し、さらに朝廷工作を行ったため、12月に信長と勅命講和することになる。 その後、浅井氏と協力関係にあった延暦寺は、元亀2年(1571年)9月に信長の比叡山焼き討ちにあい、壊滅してしまった。
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