同盟締結までの動きと内容
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 21:11 UTC 版)
「越相同盟」の記事における「同盟締結までの動きと内容」の解説
氏康の息子で対上杉戦線の最前線にいた北条氏照・氏邦兄弟は、前年(永禄9年)に北条方に寝返った上野の元上杉家臣由良成繁に和睦仲介を依頼。同時に上杉方の下総関宿城を落城寸前に追い込み、同盟締結と引き換えに軍を引くという駆け引きも行われた。兄弟それぞれが独自に動いて交渉に当たった結果、氏邦の交渉により永禄12年(1569年)6月に「越相同盟」が締結された。この時謙信は、北条高広の帰参を許している。 当初はこの北条氏からの提案に対して謙信は反対の立場であったが、上杉氏の家臣は度重なる関東出兵による疲弊から、この同盟の締結を強く勧める。4月までには以下の4点の同盟条件が調えられた(上杉家文書)。 8月15日の放生会以前に、謙信が武田攻めのため信濃に出陣する。 氏政の子・国増丸(後の太田源五郎)を謙信の養子にする。 謙信が上野、及び武蔵の内岩付城他数箇所を領有する。 足利義氏を古河公方とし、謙信が関東管領を務める。 この同盟によって関東における上杉・北条両氏の勢力範囲が定められた。そして上杉氏が長年その正統性を認めてこなかった足利義氏の古河公方就任を認め、北条氏は謙信の関東管領職継承を認めた。これにより、従来は互いの姓に対する継承の正統性を認めない意味合いから、互いに旧姓(上杉氏は長尾氏、北条氏は伊勢氏)で呼び合っていた事象が解消された。 氏政の実子と謙信の家臣柿崎景家の子・晴家が人質として互いに交換されることになり、血判誓詞の交換をもって同盟は成立した。しかし、上杉・北条の戦略観には相違も大きく北条氏内部では武蔵北部の割譲に異論が出ており、氏政が謙信の求めた実子による養子縁組要求を拒否したために、既に北条幻庵の養子となっていた氏康の実子である7男・北条三郎(後の上杉景虎)との縁組になった。 しかし里見氏や佐竹氏といった関東の諸大名並びに太田資正などの反北条勢力は、この同盟への不満から謙信との同盟を破棄、武田氏に鞍替えしたため、これら関東諸侯と北条との戦いは収まることはなかった。
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