関東出兵
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永禄2年(1559年)4月、景虎は二度目の上洛を決行し、正親町天皇・将軍足利義輝に拝謁した。この際、景虎は義輝から管領並の待遇を与えられ(上杉の七免許)、そして関東管領・上杉憲政への助力を正式に許可される御内書を得た。この壮挙と帰国の無事を祝賀して配下の諸将が景虎に太刀を贈呈した。この時、藤資は「披露太刀之衆」として太刀を献上していることがその目録「侍衆御太刀之次第」で確認できる。そしてその席次も一門に次ぐ位置にあり、重い待遇を得ていることがわかる。 その後も各地で戦功を挙げ、川中島の戦いでは景虎より血染めの感状を貰う。享年は77とも80を超えていたともいわれる。
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関東出兵
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永禄5年(1562年)、上野館林城主の赤井氏を滅ぼしたが、佐野昌綱が籠城する唐沢山城を攻めたものの落城させるには至らなかった。 7月、越中国に出陣し、椎名康胤を圧迫する神保長職を降伏させた。しかし、輝虎が越後国へ戻ると再び長職が挙兵したため、9月に再び越中国へ取って返し、長職を降伏させた。 ところが関東を空けている間に、武蔵国における上杉方の拠点・松山城が再度、北条方の攻撃を受ける。信玄からの援軍を加え、5万人を超える北条・武田連合軍に対し、松山城を守る上杉軍は寡兵であった。既に越後国から関東へ行く上越国境の三国峠は雪に閉ざされていたが、輝虎は松山城を救援するため峠越えを強行。12月には上野国の沼田城に入った。兵を募って救援に向かったものの、永禄6年(1563年)2月、間に合わず松山城は落城。 しかし、輝虎は反撃に出て武蔵国へ侵攻、小田朝興の守る騎西城を攻め落とし、朝興の兄である武蔵忍城主・成田長泰を降伏させた。次いで下野に転戦して4月には唐沢山城を攻め佐野昌綱を降伏させ、小山秀綱の守る下野の小山城も攻略。さらに下総国にまで進出し、秀綱の弟である結城城城主・結城晴朝を降伏させ、関東の諸城を攻略した。なおこの年、武田・北条連合軍により上野・厩橋城を奪われたがすぐに奪回し、北条高広を城代に据えている。閏12月に上野和田城を攻めた後、この年も厩橋城で越年。 永禄7年(1564年)1月、北条方へ寝返った小田氏治を討伐するため常陸国へ攻め入り、28日に山王堂の戦いで氏治を破り、その居城・小田城を攻略した。 同年2月、三度目の反抗に及んだ佐野昌綱を降伏させるため、下野国へ出陣し唐沢山城に攻め寄せた。しかしこの時、10回に及ぶ唐沢山城での攻防戦の中でも最大の激戦となる。輝虎は総攻撃をかけるも昌綱は徹底抗戦した。結局、昌綱は佐竹義昭や宇都宮広綱の意見に従い降伏。輝虎は義昭や広綱に昌綱の助命を嘆願され、これを受け入れた。3月、上野国の和田城を攻めるも武田軍が信濃国で動きを見せたため、越後国へ帰国した(唐沢山城の戦い)。
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