関東出兵とは? わかりやすく解説

関東出兵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 09:45 UTC 版)

中条藤資」の記事における「関東出兵」の解説

永禄2年1559年4月景虎二度目の上洛を決行し正親町天皇将軍足利義輝拝謁したこの際景虎義輝から管領並の待遇与えられ上杉の七免許)、そして関東管領上杉憲政への助力正式に許可される御内書得た。この壮挙帰国の無事を祝賀して配下諸将景虎太刀贈呈した。この時、資は「披露太刀之衆」として太刀献上していることがその目録「侍衆御太刀次第」で確認できる。そしてその席次一門に次ぐ位置にあり、重い待遇得ていることがわかる。 その後各地戦功挙げ川中島の戦いでは景虎より血染めの感状を貰う。享年77とも80超えていたともいわれる

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関東出兵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 07:48 UTC 版)

上杉謙信」の記事における「関東出兵」の解説

永禄5年1562年)、上野館林城主の赤井氏滅ぼしたが、佐野昌綱籠城する唐沢山城攻めたものの落城させるには至らなかった。 7月越中国出陣し椎名康胤圧迫する神保長職降伏させた。しかし、輝虎越後国へ戻ると再び長職挙兵したため、9月に再び越中国取って返し長職降伏させた。 ところが関東空けている間に、武蔵国における上杉方の拠点松山城再度北条方の攻撃を受ける。信玄からの援軍加え5万人を超える北条武田連合軍対し松山城を守る上杉軍寡兵であった。既に越後国から関東へ行く上越国境三国峠閉ざされていたが、輝虎松山城救援するため峠越え強行12月には上野国沼田城入った。兵を募って救援向かったものの、永禄6年1563年2月、間に合わず松山城落城。 しかし、輝虎反撃出て武蔵国侵攻小田朝興の守る騎西城攻め落とし、朝興の兄である武蔵忍城主・成田長泰降伏させた。次いで下野転戦して4月には唐沢山城攻め佐野昌綱降伏させ、小山秀綱の守る下野小山城攻略。さらに下総国にまで進出し、秀綱の弟である結城城城主結城晴朝降伏させ、関東諸城攻略した。なおこの年武田北条連合軍により上野厩橋城奪われたがすぐに奪回し北条高広城代据えている。閏12月上野和田城攻めた後、この年厩橋城越年永禄7年1564年1月北条方へ寝返った小田氏治討伐するため常陸国攻め入り28日山王堂の戦いで氏治を破り、その居城小田城攻略した同年2月三度目反抗及んだ佐野昌綱降伏させるため、下野国出陣し唐沢山城攻め寄せた。しかしこの時、10回に及ぶ唐沢山城での攻防戦中でも最大激戦となる。輝虎総攻撃をかけるも昌綱は徹底抗戦した結局、昌綱は佐竹義昭宇都宮広綱意見従い降伏輝虎義昭や広綱に昌綱の助命嘆願され、これを受け入れた3月上野国和田城攻めるも武田軍信濃国動き見せたため、越後国帰国した唐沢山城の戦い)。

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