合戦以前の情勢
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15世紀末、駿河国の今川氏親は勢力を拡大し、その子である今川義元は駿河・遠江に領国を形成する。また、甲斐国武田氏、後北条氏と甲相駿三国同盟を締結。西方の三河・尾張方面への領土拡張を図ろうとしていた。 尾張国では守護・斯波氏の家臣で清洲織田氏の家老である織田弾正忠家が成長。織田信定、織田信秀(信長の父)と二代にわたり領土を広げた。今川氏は尾張の一部にも勢力を持っていたが、信秀は天文7年(1538年)までに、尾張那古野城にいた今川氏豊を追放して城を奪い、今川氏との対立が始まる。 信秀は尾張東部と西三河を巡り、三河の有力国人である松平氏とも抗争していた。松平清康は東尾張侵攻中に家臣に殺害され(森山崩れ)、その子松平広忠も早世して弱体化し、今川氏の保護下に組み込まれていった。このため織田氏と今川氏は西三河と東尾張で対峙することになった。天文11年(1542年)の第一次小豆坂の戦いでは織田方が勝利したが、天文17年(1548年)の第二次小豆坂の戦いでは今川方が勝利。翌天文18年(1549年)には今川方が織田方の三河進出の拠点となっていた安祥城を攻略し、織田氏の三河進出は挫折に終わった。 さらに天文20年(1551年)には織田信秀が病没、後継の織田信長とその弟・信勝(後の織田信行)間で 内紛が起こった。この結果、尾張・三河国境地帯における織田氏の勢力は動揺し、信秀の死に前後して鳴海城、笠寺城(それぞれ名古屋市緑区・南区)を守る山口教継が今川方に投降。加えて山口氏の調略によって尾張東南の大高城(愛知県名古屋市緑区大高)、沓掛城(豊明市沓掛町)の一帯が今川氏の手に落ちた。この4城は尾張中心部と知多半島を分断する位置にあった。愛知用水開通とそれによる農地開発以前の知多半島は、ほぼ全域が小さな山や谷が連なる丘陵地で主要河川が無く溜め池に頼る農業困難地帯であった。知多は農業生産性および兵員動員能力では尾張の数分の一以下に過ぎない。しかしながら伊勢湾東岸を占める海運の要地であり、商業港である津島を支配し財政の支えとしていた織田家にとって、重大な脅威となっていた。尾張西南の荷之上城に拠る服部友貞が今川方に与しており、荷之上城に近い蟹江城が弘治元年(1555年)に今川方に攻められ、伊勢湾の制海権が徐々に侵略されつつあった。 織田信長も今川氏の進出阻止や逆襲に動いた。天文23年(1554年)には知多の領主である水野氏を支援して今川方の村木砦を攻め落とした。笠寺城を奪還したほか、鳴海城の周辺には丹下砦・善照寺砦・中嶋砦を、大高城の周辺には丸根砦・鷲津砦を築くことで圧迫し、城相互の連絡を遮断した。尾張東北では永禄元年~2年(1558年~1559年)、松平・今川氏が押さえる品野城(瀬戸市)を攻めたが、奪取はならなかった。
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合戦以前の情勢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/31 21:29 UTC 版)
越後国の長尾景虎は関東出兵に乗り出す前に会津の蘆名盛氏と共謀し、下野国の宇都宮氏を攻めるよう示し合わせた。宇都宮氏は弘治3年(1557年)に重臣芳賀高定の尽力により、北条氏康や佐竹義昭らの協力を得て壬生綱雄に奪われていた宇都宮城を奪還したばかりであり、当主の宇都宮広綱も若く、不安定な時期であった。景虎は下野国の小大名佐野氏に宇都宮領に侵攻するよう出撃を命じ、下野国へ侵攻した。
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