竹林の戦い
竹林の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/02/23 01:49 UTC 版)
詳細は「竹林の戦い」を参照 永正11年(1514年) 7月頃に、古河公方家の内紛で足利政氏を支持していた芳賀氏が、宇都宮錯乱を経て足利高基を支持していた宇都宮成綱・忠綱の支配体制に取り込まれることによって、当時祇園城に移座していた足利政氏の背後の守りがなくなった。これに危機感を覚えた古河公方足利政氏は、佐竹氏・岩城氏に参陣要請を出し、それに応じた佐竹義舜・岩城由隆・佐竹氏と同盟関係であった那須氏の那須資房は永正11年7月29日に出陣し、2万もの大軍を率いて下野国に侵攻。同時に、宇都宮氏と佐竹氏による北関東の覇権を巡っての争いの1つでもあった。 この合戦の前に忠綱の近臣である永山忠好は佐八美濃守の祈念を謝しており、忠綱が佐八美濃守に栗ヶ島郷(現・高根沢町栗ヶ島)を寄進したことを述べている。 それに対し宇都宮忠綱が宇都宮成綱の名代として出陣。17歳という若さで総大将を任された。忠綱は佐竹・岩城勢と那須口で対峙し、一戦している。那須氏は足利政氏を支持しており、佐竹氏と同盟関係を結んでいたためにここでの合戦は宇都宮勢にとって不利だった。ここで忠綱は敗北し、宇都宮に撤退。佐竹義舜・岩城由隆は撤退する忠綱に追撃をかけた。 下野国宇都宮竹林で両氏は再び対峙した。父・宇都宮成綱、同盟関係の結城氏の結城政朝・山川朝貞・水谷勝之などの援軍によって撃退に成功している。忠綱は、何とか勝利することができた。
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