前哨戦 那須口の戦い
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永正11年(1514年) 7月頃には錯乱を鎮圧し、芳賀氏が宇都宮成綱・忠綱の支配体制に取り込まれることによって、小山祇園城の背後の守りがなくなり、足利政氏は直接宇都宮氏と隣接するようになった。危機感を覚えた政氏は、佐竹氏・岩城氏に参陣要請を出し、それに応じた佐竹義舜・岩城由隆・佐竹氏と同盟関係であった那須氏の那須資房は永正11年7月29日に出陣し、2万もの大軍を率いて下野国に侵攻した。 永正11年4月に足利高基は奥州伊達氏の伊達稙宗に出陣するよう要請しており、また、同年7月28日に宇都宮成綱が伊達稙宗に白河口へ出陣したか尋ねており、また、両那須氏を攻撃するように要請したが、稙宗はその要請に応えることはできなかった。 佐竹氏・岩城氏の下野国侵攻に対し、宇都宮氏は宇都宮成綱の名代として宇都宮忠綱を総大将として、迎え討った。両氏はまず、下野国那須口で対峙し、一戦するが、宇都宮錯乱を鎮圧したばかりで疲弊していることや、清党が弱体化したことによって忠綱ら宇都宮勢は散々に打ち破られる。政氏方の那須領内での合戦だったなど条件が悪かったため、忠綱ら宇都宮勢は撤退している。
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