宇都宮錯乱
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宇都宮錯乱(うつのみやさくらん)とは、永正9年(1512年)から同11年(1514年)に下野宇都宮氏で発生した内紛。
- ^ 吉田、2012年、P216-217
- ^ 永正9年3月7日付興禅寺宛安堵状
- ^ 吉田、2012年、P218
- ^ 古河公方家の内紛は宇都宮氏のみならず、関東諸大名の内紛や軍事衝突などの形でも波及していた。足利高基にとって成綱救援は、舅の救援であると同時に対立する芳賀氏=政氏派が下野国中央部を支配下に置くのを防ぐ意味も有していた(吉田、2012年、P216)。
- ^ 「伊達家文書」某年(永正11年と推定)7月28日付伊達稙宗宛宇都宮忠綱書状
- ^ 旧来、興綱は成綱の弟とされていたが、大永4年4月1日(朔)に出されたと比定できる長南三河守(上総武田氏一族)宛に出された足利高基書状(「東京大学史料編纂所所蔵幸田成文氏旧蔵文書」・『戦国遺文』古河公方編543所収)には宇都宮忠綱の失脚後に「名代若輩(若輩の当主代理)」が擁立されたことが記されており、忠綱・俊綱(尚綱)・興綱を実の兄弟(成綱の子)とする系譜の方が正しいことになる(江田、2012年、P249-252)。
- ^ 猿山合戦の年代については、通説では大永6年(1526年)とされているものの、『東州雑記』には大永3年と記され、前述の足利高基書状も大永4年4月段階で既に忠綱が失脚していること、更に大永3年から4年にかけて宇都宮・鹿沼で大規模な戦いがあったことを示す記録が存在することから、大永3年8月頃の出来事と推定される。なお、宇都宮忠綱発給文書も大永4年以降のものは確認されていない。(江田、2012年、P249-252)。
- ^ 結城氏の下に奔った人物について、『結城家之記』は「芳賀兵衛大夫」、『宇都宮興廃記』は「芳賀宗弥五郎興綱」と記されているものの、前者は結城政朝の子で猿山合戦当時には成人していた結城政勝の筆記が原史料であり、かつ後者も前者からの引用を含んでいるとされており、前者の方が信憑性が高いとされる。そして、同時期の芳賀氏において「兵衛」を名乗ったのは芳賀高経(右兵衛尉)しか確認できない(江田、2012年、P239-240・246)。
- 1 宇都宮錯乱とは
- 2 宇都宮錯乱の概要
- 3 参考文献
宇都宮錯乱
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詳細は「宇都宮錯乱」を参照 永正9年(1512年)、父・成綱は、芳賀高勝を謀殺した。これによって芳賀氏与党が大反乱を起こし、宇都宮錯乱と呼ばれる内紛へと発展した。足利高基による支援や家臣の壬生綱重らの活躍により、約2年かけてこの乱を鎮圧。芳賀氏は宇都宮成綱・忠綱を頂点とする新しい支配体制に取り込まれる形で宇都宮錯乱及び、永正の内訌は収束した。 この間、忠綱は当主として何通か文書を発給しており、当主としての活動している。永正11年(1514年)には奥州伊達氏の伊達稙宗に佐竹氏・両那須氏へ攻撃するための連絡をとったりしていた。また、中には永正10年(1513年)に一向寺(現・宇都宮市西原)の諸公事等を免除した文書のように父・成綱の意思とは関係なく自らの意思で発給しているものもあった。
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