高勝の死後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/23 04:01 UTC 版)
宇都宮錯乱を経て、成綱の代に家中は一つになり、下野国統一への基盤が整えられるが、絶対的な権力者である成綱が混乱鎮静を見届けるかのように永正13年11月8日(1516年12月1日)、宇都宮城内で病没した。その後、高勝の弟・高経は宇都宮氏に復讐するために宇都宮家宿老の壬生綱房や結城氏の結城政朝らに協力を求め、暗躍する。その結果、高経の謀略によって、忠綱は宇都宮城を追放される。そして、成綱の三男・宇都宮興綱を新たな当主として立て、壬生綱房、芳賀高経、芳賀高孝による政治の専横が続くことになる。成綱・忠綱の代は古河公方の威光を利用し、戦国大名の先駆者として強大な勢力を誇った下野宇都宮氏は、宇都宮興綱、宇都宮尚綱の代で大きく弱体化し、近隣の大名に大きく後れをとることになる。
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