猿山合戦とは? わかりやすく解説

猿山合戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/27 14:44 UTC 版)

猿山合戦(さるやまかっせん)とは大永3年(1523年8月下野国で行われた合戦[1]。江戸時代の書物「下野国誌」では、大永6年(1526年)12月と記されている[1]




「猿山合戦」の続きの解説一覧

猿山合戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/02/23 01:49 UTC 版)

宇都宮忠綱」の記事における「猿山合戦」の解説

大永3年(1523年)8月結城政朝下野国宇都宮領に侵攻してきた。宇都宮忠綱出陣し宇都宮猿山結城勢と対峙し、ここで戦うが敗北する忠綱宇都宮城撤退するが、宇都宮城芳賀高経策謀により、芳賀興綱芳賀高経芳賀高孝塩谷孝綱笠間氏らが占拠し忠綱入城できなかった。忠綱やむを得ず壬生綱房居城である鹿沼城身を寄せた)。この合戦結城政朝下野国の旧結城領を宇都宮氏から奪い取ることに成功している。一方宇都宮氏一族今泉盛高討死した。 また、今宮祭祀禄』に大永3年1523年)に祭礼頭人である玉生右京助が勝山討死している。勝山城巡って興綱を擁立した家臣らと忠綱派による武力衝突があったことを示唆しており、また、翌年にも「乱ゆえ、御頭御座なく候」という記述があり、戦乱中だったことがわかる。

※この「猿山合戦」の解説は、「宇都宮忠綱」の解説の一部です。
「猿山合戦」を含む「宇都宮忠綱」の記事については、「宇都宮忠綱」の概要を参照ください。


猿山合戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/09 05:03 UTC 版)

大永の内訌 (下野宇都宮氏)」の記事における「猿山合戦」の解説

芳賀高経結城政朝頼り結城城訪れた。政朝側からすれば、宇都宮氏から旧領奪還を狙う好機であり、芳賀氏らに協力することを口実大永3年1523年8月宇都宮領へ侵攻宇都宮氏軍勢猿山対峙し、合戦となった(猿山合戦)。 合戦結城氏勝利し宇都宮忠綱宇都宮城から追放された。結城政朝芳賀高経ら反忠綱派の家臣団は成綱の末子である宇都宮興綱宇都宮氏19当主へと擁立した。興綱はまだ幼かったが、父が忠綱と同じ宇都宮成綱で、母は上杉顕実古河公方・足利氏一族山内上杉氏12当主にして関東管領務めた)の娘であり、血筋的な側面でも宇都宮氏当主相応しかったことが擁立理由とされる忠綱追放され出来事佐竹義篤北関東諸勢力でも注目されており、『東州雑記』にも「大永三年宇都宮乱、忠綱出城」と記録されていた。

※この「猿山合戦」の解説は、「大永の内訌 (下野宇都宮氏)」の解説の一部です。
「猿山合戦」を含む「大永の内訌 (下野宇都宮氏)」の記事については、「大永の内訌 (下野宇都宮氏)」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「猿山合戦」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「猿山合戦」の関連用語

猿山合戦のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



猿山合戦のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの猿山合戦 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの宇都宮忠綱 (改訂履歴)、大永の内訌 (下野宇都宮氏) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS