戦国、江戸時代
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「中村氏 (下野国)」の記事における「戦国、江戸時代」の解説
戦国時代の頃になると中村城は当時の宇都宮氏の五指に入るほどの闘将と謳われた中村玄角が城主となっていた。猿山合戦が起こると天文13年(1544年)に結城氏の家臣・水谷正村に攻められたが、嫡男の時長とともに撃退している。しかしその晩に正村の軍勢に夜襲を掛けられ玄角は城の南西において激闘の中、討ち死にした。時長は父、玄角の討ち死をうけ中村城を水谷軍に渡さぬように城に火を放ち、態勢を整えなおすために宇都宮へと引き返した。宇都宮尚綱は天文14年(1545年)に時長を先鋒に常野の鏡久下田表に水谷勢と戦ったが旧領を取り戻すことは叶わなかった。時長はその後、宇都宮広綱、宇都宮国綱の家臣として仕えた。慶長2年(1597年)、宇都宮国綱が朝鮮出兵に参陣し帰還後、豊臣姓を賜り従五位下に任じられたが、突然改易され備前国へと配流になり宇都宮氏本家を始め多くの家臣は全国各地に散らばっていった。中村氏は宇都宮氏の配流には従わず拝領の地の戸祭村(現在の戸祭元町・松原)に留まった。慶長2年の「宇都宮国綱家臣連名簿(栃木県立図書館所蔵)」によると中村日向守は戸祭村に住し、宇都宮国綱家臣の中では最大の十万石を領し、但書きには「後仙台伊達ト号ス陸奥守ノ先祖也」と記録されている。また天保3年(1832年)の「宇都宮彌三郎旧臣録名簿(栃木県立図書館所蔵)」にも「中村日向守 戸祭村 中村吉兵衛」の記録が残っている。
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戦国・江戸時代
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戦国時代の天正5年(1577年)には織田信澄の軍勢による兵火によって社殿が焼失し以後荒廃したが、江戸時代に入り姫路藩主榊原忠次、老中・小田原藩主稲葉正則や多田院御家人の子孫などによって社殿の寄進や修復が行われた。なかでも清和源氏を称した徳川将軍家による崇敬は大きく、寛文5年(1665年)に4代将軍徳川家綱によって寺領500石の寄進がなされ、寛文7年(1667年)には本殿、拝殿、随神門などが再建された。そして分骨を納めた足利将軍家を倣い歴代徳川将軍の位牌が代々本殿に納められることとなった。さらに元禄8年(1695年)には5代将軍徳川綱吉による社殿の修復がなされ、その徳川家との強い結び付きから「西日光」とも称された。 そして満仲に「正一位多田権現」の神号が贈られると次第に多田院は寺から神社の色合いが強くなっていった。
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