戦国、江戸時代とは? わかりやすく解説

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戦国、江戸時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/09 02:50 UTC 版)

中村氏 (下野国)」の記事における「戦国、江戸時代」の解説

戦国時代の頃になると中村城当時宇都宮氏五指に入るほどの闘将謳われた中村玄角城主となっていた。猿山合戦が起こると天文13年1544年)に結城氏家臣水谷正村攻められたが、嫡男時長とともに撃退している。しかしその晩に正村軍勢夜襲掛けられ玄角は城の南西において激闘の中、討ち死にした時長は父、玄角討ち死をうけ中村城水谷軍に渡さぬように城に火を放ち態勢整えなおすために宇都宮へと引き返した宇都宮尚綱天文14年1545年)に時長先鋒に常野の鏡久下田表に水谷勢と戦った旧領取り戻すことは叶わなかった。時長その後宇都宮広綱宇都宮国綱家臣として仕えた慶長2年1597年)、宇都宮国綱朝鮮出兵に参陣し帰還後豊臣姓を賜り従五位下任じられたが、突然改易され備前国へと配流になり宇都宮氏本家始め多く家臣全国各地散らばっていった。中村氏宇都宮氏配流には従わず拝領の地の戸祭現在の戸祭元町松原)に留まった。慶長2年の「宇都宮国綱家臣連名簿(栃木県立図書館所蔵)」によると中村日向守戸祭住し宇都宮国綱家臣の中では最大十万石を領し但書きには「後仙台伊達ト号ス陸奥守先祖也」と記録されている。また天保3年1832年)の「宇都宮彌三郎旧臣名簿栃木県立図書館所蔵)」にも「中村日向守 戸祭村 中吉兵衛」の記録残っている。

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戦国・江戸時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 01:22 UTC 版)

多田神社」の記事における「戦国・江戸時代」の解説

戦国時代天正5年1577年)には織田信澄軍勢による兵火によって社殿焼失し以後荒廃したが、江戸時代入り姫路藩榊原忠次老中小田原藩稲葉正則多田院御家人の子孫などによって社殿寄進修復が行われた。なかでも清和源氏称した徳川将軍家による崇敬大きく寛文5年1665年)に4代将軍徳川家綱によって寺領500石の寄進がなされ、寛文7年1667年)には本殿拝殿随神門などが再建された。そして分骨納めた足利将軍家倣い歴代徳川将軍位牌代々本殿納められることとなった。さらに元禄8年1695年)には5代将軍徳川綱吉による社殿修復がなされ、その徳川家との強い結び付きから「西日光」とも称された。 そして満仲に「正一位多田権現」の神号贈られる次第多田院は寺から神社色合い強くなっていった

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