戦国期~近世の財賀寺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 04:22 UTC 版)
中世には隆盛を極めた財賀寺であったが、戦国期にかけて度々兵火に悩まされ、応仁の乱の際には100余りあった院坊の大半が焼失、山外に擁していた数百の末寺も離散した。文明4年(1472年)、三河国宝飯郡周辺を治めていた牧野古白が「今宮」から現在地に本堂を移転して再建。同じ頃には現存の仁王門(国の重要文化財)が建立された。以後、三河牧野氏をはじめ、今川氏や徳川氏の庇護を受け、特に徳川家康は朱印160石余り、山林36町余りを寄進、これにより寺は10万石の格式に列した。 なおこの時期、財賀寺の一子院真如坊と桜井寺 (岡崎市)との間で白山先達職を巡って争いがあったことが知られ、今川義元が牛久保領内の同職を真如坊に与えた文書が寺に伝わるが、最終的には桜井寺が同職を得た。 近世には前述の家康から与えられた寺領、山林を基盤として存続したが、度々火災に見舞われ堂宇を焼失している。寺蔵記録では東照宮や弁天堂があったことが記されるが、現存しない。現存する本堂は文政6年、文殊堂は安政6年の再建で、寛政12年には三十三観音堂が建立された。鎮守社の八所神社は享保9年に本殿、文政9年に拝殿が再建され、現在する。
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