戦国期東国の地域情勢と川中島合戦とは? わかりやすく解説

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戦国期東国の地域情勢と川中島合戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/01 02:06 UTC 版)

川中島の戦い」の記事における「戦国期東国の地域情勢と川中島合戦」の解説

室町期東国鎌倉公方分裂鎌倉公方関東管領対立などの影響受けて乱国状態にあったが、戦国期には各地戦国大名化した地域権力出現し甲斐国では守護武田氏越後国では守護代長尾氏による国内統一進んでいた。 甲斐国信虎期に国内統一成され対外的には両上杉氏駿河今川氏信濃諏訪氏との和睦成立し信濃佐久郡小県郡への侵攻志向していた。武田氏では天文11年1542年)に晴信への当主交代があり、晴信期に諏訪氏との同盟関係手切となる。なお、天文11年には関東管領上杉憲政佐久郡出兵行っており、諏訪氏同盟関係にあった武田氏村上氏への通告なく佐久郡割譲行っており、武田氏ではこれを盟約違反捉えたものと考えられている。武田氏諏訪郡制圧し信濃侵攻本格化させ、相模後北条氏との関係改善を図る外交方針転換を行う。 それまで武田氏友好的関係にあった山内上杉家関東において北条氏敵対していたため、北条氏との同盟山内上杉氏との関係悪化招き信濃国衆を庇護し山内上杉氏対立していく。 その後信濃国への出兵繰り返し信濃領国化を進めた。これに対して佐久隣接する小県方面では村上氏が、諏訪隣接する中信地方では深志拠点とした信濃守護家の小笠原氏抵抗続けていた。 武田氏は、高遠氏藤沢氏、大井氏など信濃国人衆を攻略天文16年1547年)には佐久影響力残していた関東管領上杉憲政小田井原で破り笠原氏志賀城佐久市)を落として村上氏対峙する天文17年1548年の上田原戦いで村上義清敗北喫するが、塩尻峠の戦い小笠原長時撃破して、天文19年1550年)には小笠原長時追い払い仁科盛能臣従させ、中信地方制圧する同年村上義清支城戸石城砥石城とも)を攻めるが、敗退する(砥石崩れ)。しかし、翌天文20年1551年)、真田幸隆働きにより、戸石城を落とすことに成功。また屋代氏などの北部与力衆の離反もあって村上義清本拠地葛尾城孤立し武田氏勢力善光寺川中島以北南信濃一部除き信濃国のほぼ全域広がるになったまた、武田信玄越後隣国越中国内乱干渉し続けた為、上杉謙信は度々越中国遠征しなければならず、天正4年1576年)には上杉謙信越中国統一する事となった。(越中の戦国時代参照) 対武田では村上氏協力関係にあった長野盆地以北北信濃国人衆高梨氏井上氏一族など)は、元々村上氏北信覇権争っていた時代から越後守護代であった長尾氏繋がりがあり、村上氏勢力衰退し代わって武田氏脅威増大する援助求めようになった。特に高梨氏とは以前から縁戚関係結んでおり、父長尾為景実母高梨家出身であり、越後守護でもあった関東管領上杉氏との戦いでは、先々代高梨政盛から多大な支援受けていた。更に当代高梨政頼の妻は景虎叔母でもあり、景虎北信濃での戦い本格的に介入することになる。

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