戦国期~明治初頭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/14 17:35 UTC 版)
室町時代中期に入ると、皇室の権威は次第に低下していったが、それに伴い皇位継承紛争は見られなくなり、直系男子がすんなりと皇位継承するようになった。誰が皇位に就いても構わないという状況が出現したことになる。それでも伏見宮家から入った後花園天皇から17世紀前期(江戸時代初期)の後陽成天皇まで、直系男子が継承紛争もなく、迭立もないまま順調に皇位を継承していき、日本史上もっとも皇位継承が長期間にわたり穏やかに行われた時代でもある。 安土桃山時代後期・江戸時代初期の後陽成天皇は、自分の後継者が豊臣秀吉・徳川家康の2大権力者の思惑により擁立された事に不満を抱き、実子ながら、これらを廃して実弟の八条宮智仁親王に譲位しようとして、豊臣政権や江戸幕府と衝突したが、最終的に家康の推す嫡男子の後水尾天皇に譲る事になったが、長く親子間の不和が続いた。続く後水尾天皇もたびたび幕府から高圧的に扱われたため、それに耐えかねて1629年(寛永6年)、自らの女子に譲位した。このとき皇位継承した明正天皇は、称徳天皇以来859年ぶりの女帝である。明正天皇はその後、異母弟の後光明天皇へ譲位した。その後、1779年(安永8年)に後桃園天皇が子を残さないまま若くして崩御したため、日本史上、数回目となる皇統断絶の危機が発生した。しかし、この約60年前に皇統断絶の可能性を予見していた新井白石は、皇位継承権を持つ皇族家系となる閑院宮を創設しており、後桃園天皇の後継として閑院宮から光格天皇が迎えられた。 皇族の子孫は数代経た後に皇籍から離脱するのが律令以来の通例であったが、中世以後、伏見宮や閑院宮の様に皇統維持のために、何代経ても親王位に就くことのできる家系(世襲親王家)を創出していったのである。また、当時天皇に複数の皇子がいる場合、複数の親王の生活を支える財政的ゆとりが無い事や、臣籍降下をさせるだけの公家官位の余裕が無い事から、皇位継承者以外の皇子は全て幼くして出家を強要せざるを得ない(当然ながら出家した皇子には子孫が存在しない事になる。前近代の後宮制度の充実ぶりにも関わらず、中世以後に皇統断絶の危機が何度も生じたのはこうした事情がある)状態にあったが、世襲親王家が断絶した場合には、天皇が実子を養子として送り込む事で、子孫の安泰を図る事も行われた。 やがて、明治維新に伴う近代的な法治国家への移行に伴い、これまで皇室内部の事情によって決定されてきた皇位継承にも法的根拠が求められるようになり、大日本帝国憲法公布に合わせて皇室典範や登極令などが整備されていく事になる。
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