中世以後
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11世紀初期、東ローマ帝国の行政区域のシルミウム・テマの一部となりこの時期、バシレイオス2世(976年 - 1025年)治世下であった。また、コンスタンティノープル総主教区管轄のオフリド大主教区を形作った。それまではニシュ大主教区であった。1182年から1183年にかけてピロトはセルビアとハンガリーの連合軍が支配し、ステファン・ネマニャとフリードリヒ1世がピロトを通ったが市民からは熱狂的な歓迎を受けた。その直ぐ後の1190年代にアセンとペタルの蜂起が起こる。14世紀に入るとセルビア人公爵であるモムチロ(Momčilo)によりピロト要塞(Momčilov Grad)が築かれた。その後はオスマン帝国の支配下となり以後、19世紀に入るまで続くこととなり、1831年4月7日にはオスマンの支配に対する反発からボスニア人の反乱が起こった。
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中世以後
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中世から近代にかけて、スーザは南フランスと北イタリアを結ぶ交通路の要衝として、依然として重要な役割を担った。1029年にはスーザの大聖堂 (Susa Cathedral) が築かれた。 トリノ辺境伯 (March of Turin) を1034年に継いだ女伯アデライデは、首都をトリノからスーザに移したと言われ、スーザ女伯などとも呼ばれる(遷都は誤りとする批判もある。アデライデ・ディ・トリノ参照)。アルドゥイン家 (Arduinici) の最後の一人であるアデライデは生涯に3人の夫を持ったが、1046年に結婚した最後の夫がサヴォイア家(サヴォイア伯国)のオッドーネ(オトン)である。オッドーネは積極的にピエモンテに勢力を伸ばしてその大半を手中にし、後年イタリア王家となるサヴォイア家が北イタリアに勢力を伸ばす契機を作ることとなる。アデライデは、オッドーネの死(1057年)の後は息子たちの摂政として振る舞い、オッドーネとの間の長女ベルタを神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世に嫁がせ、1091年に没するまで権勢をふるった。 19世紀初頭、ナポレオン・ボナパルトはモン・スニ峠(モンチェニージオ峠)越えの交通路を整備し、新たな街道を開いた(現在の国道25号線 (it:Strada statale 25 del Moncenisio) 。ナポレオン街道 Via Napoleonica と呼ばれる)。ナポレオンはスーザに都市(città)の格を与えた。
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中世以後
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建武2年(1335年)には後醍醐天皇の綸旨により同天皇の祈願所となっている。前述の『興福寺官務牒疏』によると、往時は山上に36坊を数えたというが、天文18年(1549年)の火災で焼失し衰退した。その後再建され、近世には徳川家康が30石を与えているが往時の規模を取り戻すことはなかった。
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中世以後
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中世の終わりと共に、アーサー王に対する関心は薄れていった。マロリーの作品は人気を得たが、一方でジェフリーの時代以来のアーサー王伝説の歴史的枠組みの正当性に対する批判が増え、「ブルターニュもの」全体の信頼性が揺らぎ始めた。ジェフリー以降の年代記に広く見られた「アーサーがポスト・ローマ時代に大帝国を支配した」という記述に対し、16世紀の人文学者ポリドロ・ヴェルギリ(Polydoro Vergili)が、そのような記述はウェールズやイングランドの古物研究家によるおぞましい嘘である、と言って退けたことは有名である。社会構造の変化により中世が終わりを迎え、その次にやって来たルネサンス(人文復興)はアーサーとその伝説から聴衆を奪い取ってしまった。1634年を最後に、約200年続いたマロリーの『アーサー王の死』の印刷も途絶えてしまう。アーサー王とその伝説は完全に捨て去られたわけではなかったが、アーサー王物語を真面目に受け取る者は減り、17世紀や18世紀には単なる寓話(アレゴリー)として政治的に利用されただけだった。リチャード・ブラックモアの叙事詩『アーサー王子』(1695年)と『アーサー王』(1697年)のアーサーはジェームズ2世に対するウィリアム3世の寓意だった。同様に、この時代にもっとも有名だったと思われるアーサーの登場する物語はなんと『親指トム』だった。これは最初チャップ・ブック(民衆本)として世に出たが、後にヘンリー・フィールディングによって政治劇に改作された。舞台こそアーサー時代のブリテンに置かれているが、内容は滑稽でアーサー自身も第一にコメディー色の強い人物として描かれている。ジョン・ドライデンの仮面劇『アーサー王』はよく上演された。ただし、それはヘンリー・パーセルの音楽が良かったからで、ほとんどの場合省略して上演された。
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中世以後
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その後、聖徳太子の弟来目皇子の子孫と伝えられる登美氏の支配下に置かれていたが、平安時代初頭には登美氏からの自立への動きが強まった。この過程で法隆寺側と登美氏との間で発生したのが、善愷訴訟事件である。 延長3年(925年)には西院伽藍のうち大講堂、鐘楼が焼失し、大講堂が再建されたのは数十年後の正暦元年(990年)のことであった。以後、永享7年(1435年)に南大門が焼失するなど、何度かの火災に遭ってはいるが、全山を焼失するような大火災には遭っておらず、建築、仏像をはじめ各時代の多くの文化財を今日に伝えている。 近世に入って、慶長年間(17世紀初頭)には豊臣秀頼によって、元禄 - 宝永年間(17世紀末~18世紀初頭)には江戸幕府5代将軍徳川綱吉の生母桂昌院によって伽藍の修造が行われた。 明治時代になると神仏分離が行われ、鎮守社であった龍田明神(現・龍田神社)と天満宮(現・斑鳩神社)が法隆寺から独立している。1869年(明治2年)には天満宮に法隆寺境内にあった総社明神、五所明神、白山権現が移された。 しかし、廃仏毀釈の影響で寺の維持が困難となると、1878年(明治11年)には管長千早定朝の決断で、聖徳太子画像(唐本御影、いわゆる聖徳太子二王子像)をはじめとする300件余の宝物を当時の皇室に献納し、金一万円を下賜された。これらの宝物は「法隆寺献納宝物」と呼ばれ、その大部分は現在、東京国立博物館の法隆寺宝物館で保管されている。 明治の初め頃には真言宗に所属するようになっていたが、1882年(明治15年)には興福寺と共に法相宗として独立する。 1934年(昭和9年)から「昭和の大修理」が開始され、金堂、五重塔をはじめとする諸堂宇の修理が行われた。「昭和の大修理」は第二次世界大戦を挿んで半世紀あまり続き、1985年(昭和60年)に至ってようやく完成記念法要が行われた。この間、1949年(昭和24年)には修理解体中の金堂において火災が発生し、金堂初層内部の柱と壁画を焼損した。このことがきっかけとなって、文化財保護法が制定されたことはよく知られる。昭和の大修理の際に裏山に築堤(ちくてい)して貯水池を建設、そこから境内に地下配管して自然水利による消火栓を建設した。1949年(昭和24年)の金堂火災に際して、初期消火に活用された。 1950年(昭和25年)に法相宗から独立し、聖徳宗を設立している。 1981年(昭和56年)からは「昭和資財帳調査」として、寺内の膨大な文化財の再調査が実施され、多くの新発見があった。調査の成果は『法隆寺の至宝-昭和資財帳』として小学館から刊行されている。
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中世以後
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出し狭間は後に装飾効果を狙って持ち送りの間の空間に使われるようになったが、開口部はなくなり、軍事用でない建物の特徴になっていった。例えば、スコットランドの領主館や19世紀や20世紀のゴシック・リヴァイヴァル建築がある。
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中世以後
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大航海時代以後、他の民族と接触する機会が増えても、ヨーロッパ人は新たな他民族についての知識をギリシア・ラテンの古典や聖書の伝統に関連させて解釈した。中世カトリックでは、人間は神と獣の中間に位置し、野蛮とは「堕罪」による教化されていない動物状態への退行と考えられる。 スペインが植民地化した後のアメリカ大陸先住民(インディオ、インディアン)を奴隷として使用する是非をめぐって、ラス・カサスとセプルベダとのバリャドリッド論争で、奴隷使用を容認するセプルペダが論拠としたのはアリストテレスの「バルバロイ=奴隷」論とともに、インディオの風習に彼がみた〈自然に背く罪〉である。 中世東ローマ帝国ではギリシャ人が中心となったために、古代以来の蛮族の概念が継続された。当時のギリシャ人はローマ帝国の市民として「ローマ人」と称していたが、「ローマ人」以外の諸民族(西欧のカトリック諸国を含む)を「バルバロイ」と呼んでいた。
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