中世以降から19世紀
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「ハイリゲンシュタット (ウィーン)」の記事における「中世以降から19世紀」の解説
宗教改革時にはハイリゲンシュタットの大部分では被害は無かった。1683年の第二次オスマン・トルコウィーン包囲で住民は犠牲となった。多くのハイリゲンシュタットの住民は虐殺され、土地も荒廃した。ハイリゲンシュタットの経済回復は18世紀後半に温泉を使った公共浴場の建設であった。毎日、300人ほどの人が浴場や隣接するレストランを訪れた。しかし、1875年のドナウ川河川工事以降ハイリゲンシュタットや市立公園のウィーンの温泉は涸れてしまい、ハイリゲンシュタットの浴場界隈の建造物が取り壊され、真直ぐの通りGrinzinger Straßeが通され、その脇に現在の公園が開かれた。19世紀からの中産階級の勃興によりハイリゲンシュタットは、夏の避暑や富裕層の居住地として発展を続けてきた。ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは、耳の治療もかねて温泉保養に来たときに、ハイリゲンシュタットの遺書を書いている。1851年にウィーンの行政区再編が始まり、ホーエ・ヴァルテ地区が設立され、1873年にはぶどう畑を切り開いて作った住宅地の奥にハイリゲンシュタット墓地が開かれている。 ハイリゲンシュタットは18世紀から19世紀にかけて急成長した。1795年には3つの通りに60戸470人だった人口が1832年には94戸677人になり、1870年には244戸3,393人となった。1890年には工場も開かれ、人口は5,579人に達した。60年間で戸数は3倍以上になっている。6,000平方メートルのハイリゲンシュタット池は住民の生活用水や、建設ブームによって犠牲となっていた。その結果、汚染の問題となり1920年代まで続く。
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