中世以後から産業革命期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 00:12 UTC 版)
ヨーロッパでは、ローマ帝国衰退後から産業革命が起こるまで(紀元3世紀以後 - 18世紀初頭)の間は、道路整備は衰退し、ローマ街道として舗装に使われた石が、後世の農夫たちによって取り外されて、家畜小屋や家の建材として使用されるなど、次第に道は荒廃して行った。17世紀のフランスでは、貴族や国王を乗せた馬車が、道路上の泥濘(ぬかるみ)にはまって横転する災難に遭遇した状況を銅版画で伝えており、同様の道路の惨状はヨーロッパ全土を覆った。 18世紀の産業革命期に入って、ようやく道路整備状況が改善される動きが見られるようになり、近代的な断面構造をもつ道路が誕生した。道路建設は路盤工事の後、栗石を敷きならした上に舗石を並べてランマーで突き固めた工事が行われ、アーチ構造の橋梁も建設されるようになるが、これらの工事手法や土木技術は古代ローマ街道とさほど変わらないものであった。 フランスではローマ帝国時代に整備された道路網を引き継いで、新たな道路の建設や維持、補修に注力した。1747年、ルイ15世は道路、橋梁に関する王立土木学校をパリに開校して土木技術者の育成に力を入れた。初代校長でもあったジャン・ルドルフ・ペロネ(1708 - 1794年)の監督の下で、近代的な馬車道が整備されるようになる。1764年には、トレサゲ(1716–1796年)が路床と路面が同じ断面歪曲率をもつ砕石舗装道路であるトレサゲ式道路工法を発明した。 一方、イギリスにおける道路建設とその整備は、16世紀に入ってから馬車交通が著しく発展し、18世紀の産業革命で馬車交通がさらに急増したため、馬車走行に堪えうる強固な道路が要求されるようになった。イギリス地域の道路整備は教区単位で行われため、貧弱で多様な道路状況となった。1706年頃には、これを改良するために初の関所が作られ、通行する車両から料金を徴収した。イギリスでは時にはおよそ1100の料金所があり、3万8千 km強の道路が整備された。馬による移動の時代には、道路は砂利舗装道路上での最大斜度3%強での整備を目指していた。これは馬が坂道で荷を引き上げるのに平行に近いほうが最も都合が良かったためである。 同時期に、トーマス・テルフォード(1757 – 1834年)とジョン・ラウドン・マカダム(1756 – 1835年)という道路建築家が、それぞれ独自の工法を発明した。テルフォード式道路は平坦な路床の上に栗石敷設してその上に砕石と砂利を敷き詰めて転圧したもので1805年に発明され、マカダム式道路は路床の上に直接砕石を施設して上層部に細粒砕石を転圧したもので1815年に発明された。特にマカダム式道路は、短い期間で施工可能で、技術的にも容易であったため広く普及し、近代式マカダム道路の原型にもなった。 産業革命期のヨーロッパの道路で、本格的な道路改築を行ったのはナポレオン・ボナパルト(1769 - 1821年)である。ナポレオンは、全ヨーロッパ支配を進める上で、戦争を有利に進めるための軍事的な輸送路確保を目的に道路建設を積極的に行い、フランスからイタリア遠征の経路上にあるアルプス越えのシンプロン峠の道路建設を部下に命じて行わせた。100名以上の人命を失う難工事を乗り越えてゴンドー・トンネルが貫通し、1805年にシンプロン峠越えの道路は完成を見た。その後、モン・スニ峠の道路建設も手掛け、さらに全ヨーロッパにその範囲は及んだ。ナポレオンが道路建設のために支出した予算は、同時期の要塞建設予算の約2倍あったとされている。 歴史的に、都市と都市を結ぶ道路(道:road)と違い、欧米の都市内部の道(街路:street)は廃物処理の場所でもあった。古代ローマ時代は道の真ん中に水を通し、排泄物などの汚物を流していた(ポンペイ遺跡など)。そのため、道の真ん中が両側の町家より数段低くなっていて両側を飛び石状の道渡しで渡る。また、馬車もこの水路の中を通行する。また地下下水道の無かった近世のパリではゴミや汚物を街路に捨てていたのは有名な話である。
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