アルプス越え
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ローマを屈服させるにはイタリア本土を直接攻撃するしかない。しかし、制海権がローマに握られている以上、海上からの侵攻は困難である。さらにローマはカルタゴの侵入が予想されるイタリア西部、南部に兵力を配置していた。ここでハンニバルはアルプス山脈を越え、ローマの防備の薄い北方から侵攻するという前代未聞の発想に至る(ハンニバルのアルプス越え)。 紀元前218年5月、弟のハスドルバルにヒスパニアの統治を任せたハンニバルは、カルタゴ・ノヴァ(現カルタヘナ)を進発し、海岸線沿いに南フランスを進んだ。ローヌ川での戦いを経て9月、ハンニバルは約40,000名の兵士と30頭の戦象を率いてアルプス越えに挑んだ。なお、この際にカルタゴ軍が辿ったルートの詳細は不明であり、現在でも諸説分かれている。9月のアルプスはすでに冬季といってよく、ケルト人の部族との戦いもあり、大軍での越山は困難を極めた。イタリアに到着した際のカルタゴ軍の兵力は26,000名(歩兵20,000名、騎兵6,000名)、戦象はわずか3頭となっていた。
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アルプス越え
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「アレクサンドル・スヴォーロフ」の記事における「アルプス越え」の解説
詳細は「イタリア・スイス戦役(英語版)」および「スヴォーロフのスイス戦役(ロシア語版)」を参照 この頃、スイスではマッセナ率いるフランス軍とカール大公率いる連合軍が交戦しており、6月4日の第一次チューリッヒの戦い(英語版)から、膠着状態が続いていた。スヴォーロフの活躍によってイタリア方面の優位が確立したことによって、連合軍は戦略を切り替えることとした。スイスのカール大公の軍をライン方面へ転じ、その穴埋めに余裕の出来たスヴォーロフの軍をスイスへ振り向けようとしたのである。 9月、スヴォーロフは20,000名の軍を率いてスイスへ向かった。9月15日、タヴェルネ (Torricella-Taverne) に到着。しかし、ここで合流するはずのオーストリア軍の輜重隊が到着しておらず、それを待って時間を浪費することとなった。9月19日、サン・ゴタール峠に差し掛かったところで、ルクールブ率いるフランス軍が立ちはだかった。スヴォーロフはローゼンベルクに分遣隊を与えて翼側から回りこませ、9月24日に協同して攻撃し、フランス軍を後退させた。9月25日、ロシア軍はルツェルンへ続く橋(通称、悪魔の橋)を超えた。 9月26日、アルトドルフに到着したところで、スイスでマッセナと対峙していたコルサコフの軍が、第二次チューリッヒの戦い(フランス語版)で破れたという報告が届いた。フランス軍の攻撃を避けるため、スヴォーロフは軍を東へ転じた。10月4日、グラールスに到着。しかし、ここで合流するはずのオーストリア軍の輜重隊が、またもや到着していなかった。この時点でフランス軍はロシア軍の退路をふさぎつつあった。弾薬兵糧の欠乏した状態では、正面突破は困難である。スヴォーロフは、アルプス山脈を越えることを決意した。10月のアルプスはすでに冬といってよく、行軍は困難を極め、脱落者が相次いだ。10月8日、アルプス越えに成功したロシア軍は、イランツ(英語版)で連合軍と合流した。兵員は3分の1程度まで減少していたが、フランス軍の追撃は完全に振り切った。
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アルプス越え
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「ハンニバルのアルプス越え」の記事における「アルプス越え」の解説
ハンニバルは、デュ・シャ山(Dent du Chat)に向かい、アクエステ(Aquste)からシェヴェル(Chevelu)を通過した。しかしデュ・シャ山の峠にアロブロージュ族(en)が陣を構えていることが分かった。このため、ハンニバルは弱点を探るために斥候を派遣した。結果、陣地に兵士がいるのは昼間だけで、夜には陣地を離れていることが分かった。アロブロージュ族に夜襲の計画があることを悟られないよう、ハンニバルは自軍の野営地で多くの火をたかせ、そこに兵士がいるように偽装した。アロブロージュ族が陣地を離れると、最良の兵を率いて陣地を攻撃し、峠の道を確保した。 敵の逆襲に備え、ハンニバルは峠道を見下ろす崖の茂みに投石兵と射手を隠しておいた。この崖は、隊列を作って迫ってくる敵を攻撃するのに最高の場所であった。峠からの下りは急峻で、カルタゴ軍、特に荷役動物部隊は行軍に苦労した。これを見たアロブロージュ族は、自身の位置が不利であったにも関わらず、やみくもに攻撃を開始した。この攻撃で多くの荷役動物が崖から落ちて失われた。ハンニバルは困難な状況に追い込まれたが、崖上の伏兵を率いて攻撃を開始した。アロブロージュ族は崖の下から上方のカルタゴ軍に対して矢や投槍で対抗したが、結局はほとんどが戦死した。この戦闘の後、カルタゴ軍は峠を下り、現在のル・ブルジェ=デュ=ラック(en)付近に到着した。 ここは幅4-6マイル程の平原であったが、殆どの兵がデュ・シャ山に派遣されていたため、ここを防御する兵はほとんどいなかった。ハンニバルはアロブロージュ族の街(現在のシャンベリ)に軍を進め、ここを容易に占領し、馬や穀物を含む物資を奪い取った。加えて3日分に相当する兵糧も確保できた。補給物資の多くをデュ・シャ山での戦闘で失っていたため、これは歓迎すべきことであった。続いて、ハンニバル軍に逆らうとどうなるかを付近の部族にも知らしめるため、街の破壊を命じた。ハンニバルは兵に休息をとらせ、また糧食をさらに集めるために、その場に宿営しまた兵士達に感謝を述べた。 カルタゴ軍は現在のアルベールヴィル付近まで進み、そこで贈り物と家畜を捧げてきたセントローン族(en)に出会った。セントローン族は忠誠心を示すため、人質までも差し出した。ハンニバルは彼らに疑いを持っていたが、それは隠したまま、セントローン族に2日間道案内をさせた。セエ(fr)通ってプチ・サン・ベルナール峠に向かっていると、道は次第に狭くなり、セントローン族がカルタゴ軍に攻撃を仕掛けてきた。 セントローン族の攻撃は、カルタゴ軍の半分が峠を越えるのを待ってから開始された。このため軍は二つに分断され、組織的な戦闘を行うのが難しくなった。しかしハンニバルはこれを予想していたため、戦象、騎兵および補給部隊を前方に、重装歩兵を後方に配置していた。セントローン族は兵士をカルタゴ軍が通過する道路に並行した高所に配置しており、岩を落として多数の荷役動物を殺傷した。高所からの攻撃に、隊列は道に閉じ込められ混乱した。しかし、後方の重装歩兵が峠に到着したため、セントローン族は高所から降りて戦わざるを得なくなった。この重装歩兵はセントローン族を押し返した。 ハンニバルはここで2日間休息をとった。すでに10月の終わりであり、雪が降り始めていた。いくつもの戦闘を含む長期の作戦、荷役動物の損失などで、軍の士気は低下していた。イベリア半島を出発してからすでに5ヶ月が経過しており、兵士の数は大幅に減っていた。ハンニバルが率いてきた兵士の多くはリュビアやイベリアの出身で、アルプスの高度や寒さにはなれていなかった。ポリュビオスによると、ハンニバルは作戦の終了は近く、すぐにポー平原に入れると宣言した(実際にはプチ・サン・ベルナール峠からポー平原は見えなかったが)。また、そこのガリア人の協力を得られるとのマギラスとの約束を思い出させた。続いてローマの方向を指して、軍の士気を高めた。この休息の後、イタリアに向かってアルプスを下った。
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