アルプス越えとは? わかりやすく解説

アルプス越え

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/17 23:55 UTC 版)

第二次ポエニ戦争」の記事における「アルプス越え」の解説

ローマ屈服させるにはイタリア本土直接攻撃するしかない。しかし、制海権ローマ握られている以上、海上からの侵攻は困難である。さらにローマカルタゴ侵入予想されるイタリア西部南部兵力配置していた。ここでハンニバルアルプス山脈越えローマ防備の薄い北方から侵攻するという前代未聞発想に至る(ハンニバルのアルプス越え)。 紀元前218年5月、弟のハスドルバルヒスパニア統治任せたハンニバルは、カルタゴ・ノヴァ(現カルタヘナ)を進発し、海岸線沿いに南フランス進んだローヌ川での戦い経て9月ハンニバルは約40,000名の兵士30頭の戦象率いてアルプス越えに挑んだ。なお、この際カルタゴ軍辿ったルートの詳細不明であり、現在でも諸説分かれている。9月アルプスはすでに冬季といってよく、ケルト人部族との戦いもあり、大軍での越山は困難を極めたイタリア到着した際のカルタゴ軍兵力26,000名(歩兵20,000名、騎兵6,000名)、戦象はわずか3頭となっていた。

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アルプス越え

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 05:36 UTC 版)

アレクサンドル・スヴォーロフ」の記事における「アルプス越え」の解説

詳細は「イタリア・スイス戦役英語版)」および「スヴォーロフスイス戦役ロシア語版)」を参照 この頃スイスではマッセナ率いフランス軍カール大公率い連合軍交戦しており、6月4日第一次チューリッヒの戦い英語版)から、膠着状態続いていた。スヴォーロフ活躍によってイタリア方面優位確立したことによって、連合軍戦略切り替えることとした。スイスカール大公の軍をライン方面転じ、その穴埋め余裕出来たスヴォーロフの軍をスイス振り向けようとしたのである9月スヴォーロフ20,000名の軍を率いてスイス向かった9月15日、タヴェルネ (Torricella-Taverne) に到着。しかし、ここで合流するはずのオーストリア軍輜重隊到着しておらず、それを待って時間浪費することとなった9月19日サン・ゴタール峠差し掛かったところで、ルクールブ率いフランス軍立ちはだかったスヴォーロフローゼンベルク分遣隊与えて側から回りこませ、9月24日協同して攻撃しフランス軍後退させた。9月25日ロシア軍ルツェルンへ続く通称悪魔の橋)を超えた9月26日アルトドルフ到着したところで、スイスマッセナ対峙していたコルサコフの軍が、第二次チューリッヒの戦いフランス語版)で破れたという報告届いたフランス軍の攻撃避けるため、スヴォーロフは軍を東へ転じた10月4日グラールス到着。しかし、ここで合流するはずのオーストリア軍輜重隊が、またもや到着していなかった。この時点フランス軍ロシア軍退路をふさぎつつあった。弾薬兵糧欠乏した状態では、正面突破は困難である。スヴォーロフは、アルプス山脈越えることを決意した10月アルプスはすでに冬といってよく、行軍は困難を極め脱落者が相次いだ10月8日、アルプス越えに成功したロシア軍は、イランツ(英語版)で連合軍合流した兵員3分の1程度まで減少していたが、フランス軍追撃は完全に振り切った

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アルプス越え

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 00:16 UTC 版)

ハンニバルのアルプス越え」の記事における「アルプス越え」の解説

ハンニバルは、デュ・シャ山(Dent du Chat)に向かい、アクエステ(Aquste)からシェヴェル(Chevelu)を通過した。しかしデュ・シャ山の峠にアロブロージュ族(en)が陣を構えていることが分かったこのためハンニバル弱点を探るために斥候派遣した結果陣地兵士がいるのは昼間だけで、夜に陣地離れていることが分かった。アロブロージュ族に夜襲計画があることを悟られないよう、ハンニバル自軍野営地多くの火をたかせ、そこに兵士がいるように偽装した。アロブロージュ族が陣地離れると、最良の兵を率いて陣地攻撃し、峠の道を確保した。 敵の逆襲備えハンニバル峠道を見下ろす崖の茂みに投石兵射手隠しておいた。この崖は、隊列作って迫ってくる敵を攻撃するのに最高の場所であった。峠からの下り急峻で、カルタゴ軍、特に荷役動物部隊行軍苦労した。これを見たアロブロージュ族は、自身位置が不利であったにも関わらずやみくもに攻撃開始した。この攻撃多く荷役動物が崖から落ちて失われたハンニバル困難な状況追い込まれたが、崖上の伏兵率いて攻撃開始した。アロブロージュ族は崖の下から上方カルタゴ軍に対して矢や投槍対抗したが、結局はほとんどが戦死した。この戦闘の後カルタゴ軍は峠を下り現在のル・ブルジェデュ=ラックen付近に到着した。 ここは幅4-6マイル程の平原であったが、殆どの兵がデュ・シャ山に派遣されていたため、ここを防御する兵はほとんどいなかった。ハンニバルはアロブロージュ族の街(現在のシャンベリ)に軍を進め、ここを容易に占領し、馬や穀物を含む物資奪い取った加えて3日分に相当する兵糧確保できた。補給物資多くをデュ・シャ山での戦闘失っていたため、これは歓迎すべきことであった続いてハンニバル軍に逆らうとどうなるかを付近部族にも知らしめるため、街の破壊命じたハンニバルは兵に休息をとらせ、また糧食をさらに集めるために、その場宿営しまた兵士達感謝述べたカルタゴ軍現在のアルベールヴィル付近まで進み、そこで贈り物家畜捧げてきたセントローン族(en)に出会った。セントローン族は忠誠心を示すため、人質までも差し出したハンニバルは彼らに疑い持っていたが、それは隠したまま、セントローン族に2日間道案内をさせた。セエ(fr通ってプチ・サン・ベルナール峠向かっていると、道は次第狭くなり、セントローン族がカルタゴ軍攻撃仕掛けてきた。 セントローン族の攻撃は、カルタゴ軍半分峠を越えるのを待ってから開始された。このため軍は二つ分断され組織的な戦闘を行うのが難しくなった。しかしハンニバルはこれを予想していたため、戦象騎兵および補給部隊前方に、重装歩兵後方配置していた。セントローン族は兵士カルタゴ軍通過する道路並行した高所配置しており、岩を落として多数荷役動物殺傷した高所からの攻撃に、隊列は道に閉じ込められ混乱した。しかし、後方重装歩兵が峠に到着したため、セントローン族は高所から降りて戦わざるを得なくなった。この重装歩兵はセントローン族を押し返した。 ハンニバルはここで2日休息をとった。すでに10月終わりであり、降り始めていた。いくつも戦闘を含む長期作戦荷役動物損失などで、軍の士気低下していた。イベリア半島出発してからすでに5ヶ月経過しており、兵士の数は大幅に減っていた。ハンニバル率いてきた兵士多くリュビアイベリア出身で、アルプスの高度や寒さはなれていなかった。ポリュビオスによると、ハンニバル作戦の終了近く、すぐにポー平原入れると宣言した実際にプチ・サン・ベルナール峠からポー平原見えなかったが)。また、そこのガリア人協力得られるとのマギラスとの約束思い出させた。続いてローマ方向指して、軍の士気高めた。この休息の後、イタリア向かってアルプス下った

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