アルプス建築・色彩宣言
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「ブルーノ・タウト」の記事における「アルプス建築・色彩宣言」の解説
1916年に初めてオスマン帝国のコンスタンチノープル(現トルコ、イスタンブール)に渡り、ドイツ・トルコ友好会館の建設に携わった。この時にミマール・シナン建築のモスクに強く惹かれるようになった。タウトはトルコと縁の深い建築家で、最晩年にもトルコと関わりを持つようになる。 1918年に起草、翌年に出版した画帖『アルプス建築』は実際には実現不可能な建築物(アルプス山中にクリスタルの建築を建てようとするユートピア構想[要出典])のイメージ図で、ニーチェの『ツァラトゥストラはこう語った』の下山のシーンから影響を受けていることが知られている。1919年には、その他にも『宇宙建築師』(Der Weltbaumeister)を描いた。[要出典]同年、タウトはモスクワに入って仕事をした。これ以後、断続的に続いた旧ソ連での仕事は、後にタウトがナチスから睨まれる原因になった。 1921年から1924年まで、タウトはマクデブルク市の建築課に勤務し、この時期に「色彩宣言」を発表、建築物はすべて色彩を持たねばならないと主張して、マクデブルク市庁舎やオットーリヒター通りの集合住宅に彩色を施した。さらにこのマクデブルク時代に『曙光』『都市の解体』を出版、特に後者は世界的にも広く読まれ、日本でも分離派の建築家に好んで読まれた。
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