中世以前の相模トラフ沿いが震源域と疑われる地震
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「相模トラフ巨大地震」の記事における「中世以前の相模トラフ沿いが震源域と疑われる地震」の解説
南関東の古い歴史地震の記録は、天正18年(1590年)の小田原北条氏の滅亡と徳川家康の江戸入城を境にしてそれ以前は鎌倉時代を除くと極めて少ないため、相模トラフ巨大地震は史料から確証が得られていない。しかし、878年(相模・武蔵地震)、1293年(鎌倉大地震)、1433年などにも大被害を伴う地震の記録があり相模トラフ沿いで発生した可能性が考えられ、それ以外にも未知の巨大地震が埋もれている可能性があるとされる。1257年の地震も候補に挙げられている。以下の西暦換算はユリウス暦としている。 弘仁9年7月(818年)- 『類聚国史』に記された関東諸国の地震を1923年関東地震と同類のものとする見方もあるが、相模・武蔵・下総・常陸・上野・下野等国とされ上総と安房が記されていないこと、津波の被害の記述がないことなどの理由で萩原尊禮(1982)はこの地震を内陸地震としている。 元慶2年9月29日(878年10月28日)- 『日本三代実録』に記された関東諸国の地震(相模・武蔵地震)は、伊勢原断層の活動時期に合致するとする説と、館山市の海岸で見出された900年頃と推定される津波堆積物から相模トラフのプレート境界地震とする説がある。 正応6年4月13日(1293年5月20日)- 石橋(1991)は、鎌倉に大震災をもたらした永仁地震(鎌倉大地震)が相模トラフのプレート境界型巨大地震であった可能性を指摘している。三浦半島の小網代湾では、この時期に対比される可能性のある津波堆積物が見出されている。また、同時期の隆起による離水によって形成された岩井低地の浜堤列が見出されている。 明応4年8月15日(1495年9月3日)- 『鎌倉大日記』に高徳院の大仏殿を流失させたと記録される、明応(関東)地震は、東海地震とされる1498年明応地震の誤記、あるいは『梅花無尽蔵』の記録から文明18年(1486年)の時点で大仏は露座であったと記され、『鎌倉大日記』の記録は疑わしいとされてきた。しかし、同日に京都でも地震の記録があり、石橋(1998)は相模トラフ巨大地震の検討候補としている。金子(2012)は、伊東市の宇佐美遺跡で確認された津波堆積物が『鎌倉大日記』の記録に整合し、北条早雲が津波災害の混乱に乗じて小田原城を奪取した可能性が考えられるとしている。
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