中世以前の相模トラフ沿いが震源域と疑われる地震とは? わかりやすく解説

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中世以前の相模トラフ沿いが震源域と疑われる地震

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/28 06:20 UTC 版)

相模トラフ巨大地震」の記事における「中世以前の相模トラフ沿いが震源域と疑われる地震」の解説

南関東の古い歴史地震記録は、天正18年1590年)の小田原北条氏滅亡徳川家康江戸入城を境にしてそれ以前鎌倉時代を除くと極めて少ないため、相模トラフ巨大地震史料から確証得られていない。しかし、878年相模・武蔵地震)、1293年鎌倉大地震)、1433年などにも大被害を伴う地震の記録があり相模トラフ沿いで発生した可能性考えられそれ以外にも未知巨大地震埋もれている可能性があるとされる1257年地震候補挙げられている。以下の西暦換算ユリウス暦としている。 弘仁9年7月818年)- 『類聚国史』に記され関東諸国地震1923年関東地震同類ものとする見方もあるが、相模・武蔵・下総・常陸上野下野等国とされ上総安房記されていないこと、津波被害記述がないことなどの理由萩原尊禮(1982)はこの地震内陸地震としている。 元慶2年9月29日878年10月28日)- 『日本三代実録』に記され関東諸国地震相模・武蔵地震)は、伊勢原断層活動時期合致するとする説と、館山市海岸見出され900年頃と推定される津波堆積物から相模トラフプレート境界地震とする説がある。 正応6年4月13日1293年5月20日)- 石橋(1991)は、鎌倉大震災もたらした永仁地震鎌倉大地震)が相模トラフプレート境界巨大地震であった可能性指摘している。三浦半島小網代湾では、この時期対比される可能性のある津波堆積物見出されている。また、同時期の隆起による離水によって形成され岩井低地浜堤列が見出されている。 明応4年8月15日1495年9月3日)- 『鎌倉大日記』に高徳院大仏殿流失させたと記録される明応関東地震は、東海地震とされる1498年明応地震誤記、あるいは『梅花無尽蔵』の記録から文明18年1486年)の時点大仏露座であった記され、『鎌倉大日記』の記録疑わしいとされてきた。しかし、同日京都でも地震の記録があり、石橋(1998)は相模トラフ巨大地震検討候補としている。金子(2012)は、伊東市宇佐美遺跡確認され津波堆積物が『鎌倉大日記』の記録整合し北条早雲津波災害混乱乗じて小田原城奪取した可能性考えられるとしている。

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