中世中期以後
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889年から955年にかけて幾度か、パヴィーアはハンガリー人の侵攻を受けて炎上している。1004年には皇帝ハインリヒ2世は、イタリア王への戴冠に反対するパヴィア市民による蜂起を血塗られた形で鎮圧している。 12世紀、パヴィーアはコムーネとなり、自治権を獲得した。中世イタリアを特色づける教皇派(ゲルフ)と皇帝派(ギベリン)の政治的対立において、パヴィーアは伝統的にギベリン(皇帝派)に属しており、この立場はミラノとの対抗関係によって支えられていた。イタリアにおいて長らく失われていた帝国の影響力を再び主張した神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世に対し、ミラノ率いるロンバルディア同盟は、皇帝への反抗の旗印となっていた。パヴィーアはまた、ドイツの聖職者詩人(ゴリアール)のひとりアルキポエタ (Archpoet) が、1163年に「良い時間」を過ごすのに適した都市であると言及したことで知られている。 その後数世紀、パヴィーアは重要で活発な都市であった。1329年、イタリア滞在中の皇帝ルートヴィヒ4世はパヴィーア条約 (Treaty of Pavia (1329)) に調印し、かつて抗争した兄ルドルフ1世(1319年没)の子孫によるライン宮中伯の地位継承を認めた(この系統はプファルツ系ヴィッテルスバッハ家と呼ばれる)。 パヴィーアはミラノによる支配に対して反抗していたが、ついに1359年、ミラノの領主であるヴィスコンティ家に都市の支配者の地位を明け渡した。ヴィスコンティ家(のち1395年に公位が認められミラノ公国)のもとでパヴィーアは、学問と芸術の中心地となり、1361年にはパヴィーア大学が設置された。この大学は法学校を中心として設立され、多くの国の学生を惹きつけた。 また、1481年に市民の要望からルドヴィーゴ・スフォルツァの弟パヴィア司教アスカニオ・スフォルツァに訴えがでて「パヴィア大聖堂」の建築が考えられ、1488年にはブラマンテが原設計を書いている。1490年にはルドヴィーゴがフランチェスコ・ディ・ジョルジュとレオナルド・ダ・ヴィンチを呼び寄せ意見を聞いている。
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