中世京都の「洛中」と「洛外」
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「洛中」の記事における「中世京都の「洛中」と「洛外」」の解説
平安時代には京中(洛中)は京職・検非違使の管轄であるが、辺土(洛外)は山城国府の管轄と考えられていた。鴨長明の『方丈記』の養和の飢饉に関する件には、「京ノウチ」を「一条ヨリハ南、九条ヨリハ北、京極ヨリハ西、朱雀ヨリハ東」と記し、続いて「辺地(へんぢ=辺土)」として白河や「河原」(鴨川河川敷)とともに「西ノ京(西京、かつての右京地域)」を挙げている。辺土のうち、鴨川の東を河東と呼称し、白河や六波羅などがこれに該当した。『吉記』治承4年11月30日(1180年12月18日)条によれば、安徳天皇が平清盛の六波羅第に滞在中の高倉上皇の元に行幸しようとした際に、記主の吉田経房が辺土への行幸に神鏡を持ち出す事に異論を唱えている。鎌倉幕府が六波羅に六波羅探題を設置したのも、平家滅亡後に、京都における北条氏の邸宅が置かれていたこともあるが、検断権を巡る検非違使との直接的な衝突を避けたことも理由に挙げられる。後に河東は六波羅探題の異称にもなった。正応元年6月10日(1288年7月9日)の伏見天皇による殺生禁止の宣旨には、宣旨を適用する洛中の外側を「近境」と表現して、東は東山の下、南を赤江(現在の伏見区羽束師古川町)、西を桂川の東、北を賀茂の山と定めている。鎌倉時代末期の朝廷や室町幕府が酒屋役を「洛中辺土」に課しており、応仁の乱の頃から辺土に替わって洛外という語が一般的になる。
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