中世京都の「洛中」と「洛外」とは? わかりやすく解説

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中世京都の「洛中」と「洛外」

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 01:09 UTC 版)

洛中」の記事における「中世京都の「洛中」と「洛外」」の解説

平安時代には京中洛中)は京職検非違使管轄であるが、辺土洛外)は山城国府の管轄考えられていた。鴨長明の『方丈記』の養和の飢饉に関する件には、「京ノウチ」を「一条ヨリハ南、九条ヨリハ北、京極ヨリハ西、朱雀ヨリハ東」と記し続いて辺地(へんぢ=辺土)」として白河や「河原」(鴨川河川敷とともに西ノ京西京、かつての右京地域)」を挙げている。辺土のうち、鴨川の東を河東呼称し、白河六波羅などがこれに該当した。『吉記治承4年11月30日1180年12月18日)条によれば安徳天皇平清盛六波羅第滞在中の高倉上皇元に行幸ようとした際に、記主吉田経房辺土への行幸神鏡持ち出す事に異論唱えている。鎌倉幕府六波羅六波羅探題設置したのも、平家滅亡後に、京都における北条氏邸宅置かれていたこともあるが、検断権を巡る検非違使との直接的な衝突避けたことも理由挙げられる。後に河東六波羅探題異称にもなった。正応元年6月10日1288年7月9日)の伏見天皇による殺生禁止宣旨には、宣旨適用する洛中外側を「近境」と表現して東は東山の下、南を赤江現在の伏見区羽束師古川町)、西を桂川の東、北を賀茂の山と定めている。鎌倉時代末期朝廷室町幕府酒屋役を「洛中辺土」に課しており、応仁の乱の頃から辺土替わって洛外という語が一般的になる

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