中世三十三所寺院における信仰と巡礼とは? わかりやすく解説

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中世三十三所寺院における信仰と巡礼

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 14:46 UTC 版)

西国三十三所」の記事における「中世三十三所寺院における信仰と巡礼」の解説

西国三十三所に算えられる寺院は、第一番の那智山青岸渡寺から第三十三番谷汲山華厳寺までに番外三か寺を加えて36あり、その組み合わせは『寺門高僧記以来変化が無い。これら36寺院は、規模をもとに4つ分類される一つ目権門寺院相当する有力寺院であり、興福寺南円堂第九番)、醍醐寺(上醍醐准胝堂、第十一番)、石山寺第十三番)、三井寺観音堂第十四番)、泉涌寺今熊野観音寺第十五番)、清水寺第十六番)の6か寺が該当する。これらの寺院のうち、清水寺石山寺三十三所先立つ貴族観音信仰において対象とされた各寺院本尊そのまま三十三所信仰対象となっているが、他の4か寺では対象となっているのは寺の本尊ではなく子院本尊であることから、たまたま庶民信仰集めた堂舎三十三所連なった見られている。 二つ目地方の有力寺院で、青岸渡寺第一番)を始めとして24か寺と、数的に全体3分の2占め三十三所中心的存在である。これらの寺院多数の子院を従えた一山寺院であり、数百人、時には千人越える僧を擁する地方の有力寺院であった寺院本尊三十三所信仰対象とは多く場合において一致するが、三十三所巡礼寺院であることは寺の性格全体にとってあまり重要ではなかった。 例えば、一番札所である那智本尊今日に至るまで那智滝本地仏たる千手観音であるが、三十三所としての本尊如意輪観音である。千手観音ならんで如意輪観音信仰の対象となるのは、12世紀初めごろと見られ藤原宗忠の『中右記』にその様子が見える。宗忠は、熊野権現本殿前に設けられ参詣者が参籠礼拝する礼堂」に導かれ社僧から如意輪験所の由縁説かれたのち、滝殿とその傍ら千手堂参詣しており、如意輪堂古くからの観音霊山内の新たな霊場であった三つ目京都市中の中小寺院で、六波羅蜜寺第十七番)ほか、行願寺第十九番)、頂法寺第十八番)に番外元慶寺加えた4か寺が該当する。これらの寺院平安時代から盛んになった京都近郊洛中洛外七観音霊場巡礼由来する寺院である。六波羅蜜寺行願寺、そして頂法寺三十三所寺院であるとともに洛中洛外七観音一角であり、こうした京都近郊観音巡礼寺院としての性格清水寺石山寺にもあてはまる。こうしたことから、三十三所成立は、京都近郊観音巡礼歴史的前提とし、それらと地方著名な観音信仰寺院との融合よるものであることが分かる四つ目地方小規模寺院番外菩提寺および法起院の2か寺が該当する。これら寺院はいずれ小規模な寺院であるが、三十三所巡礼縁起まつわる寺院であり、三十三所隆盛とともに花山院縁起広く知れ渡り参詣者を集めようになったことで番外加えられた。 各寺院三十三所支え三十三所巡礼行じ三十三所担い手は、当初山伏前述三十三度行者のような廻国巡礼行者熊野比丘尼各種勧進聖一般僧侶といった宗教者集団であってこうした聖に導かれる形で民衆巡礼行っていた。こうした宗教者は、各地勧進募っては、集めた願物によって堂舎造営修造燈明料の維持にあたっており、勧進聖としての活動通じて一山経済支えていた。とりわけ室町幕府支配弛緩する15世紀以後各地寺社はかつてのように公権力保護依存しえなくなる。かわって各地寺社依存したのが、勧進聖による本願であったなかでも那智山勧進聖たちは、各地巡って三十三所組織化努めた青岸渡寺第一番とし、華厳寺第三十三番とする順序史料上に初見されるのは、勧進聖活動定着するのと同じ15世紀中頃のことである。さらに勧進聖たちは、巡礼庶民対象にした宿所設けるなど、より多く巡礼招き、さらに多く奉加散銭獲得することを目指した。こうした過程経て当初もっぱら修行僧修験者らのものであった西国三十三所巡礼は、室町時代中期には庶民による巡礼として定着していった。 庶民への勧進活動当たって三十三所寺院であることが大きな効果を持つことから、一山における勧進聖経済的役割大きく寺院側も堂舎造営修造にあたって巡礼からの奉加期待寄せていた。そのため、室町時代中期戦国時代)から中世末期にかけて発された、寺院修覆のための勧進状縁起では三十三所寺院であることが強調されるとともに勧進状縁起携えて勧進担った聖の拠点たる子院群が一山支え状況生み出された。しかしながらこうした勧進聖集団寺院内における地位低く、あくまで下僧としてもっぱら扱われたために正式の法会祭礼参加することはできなかった。有力とはいえ寺院内の勢力に過ぎない勧進聖集団もっぱら支えられていたという事情は、各寺院における三十三所位置付けを低いものにとどめさせた。三十三所寺院蔵する中世古文書数千点に達するが、縁起勧進状の類を除くと、三十三所関係する古文書の数はわずかに十数通にすぎず、三十三所寺院であることは各寺院の持つ多様な性格一つに過ぎなかった。

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