中世三十三所寺院における信仰と巡礼
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「西国三十三所」の記事における「中世三十三所寺院における信仰と巡礼」の解説
西国三十三所に算えられる寺院は、第一番の那智山青岸渡寺から第三十三番の谷汲山華厳寺までに番外三か寺を加えて36あり、その組み合わせは『寺門高僧記』以来、変化が無い。これら36の寺院は、規模をもとに4つに分類される。一つ目は権門寺院に相当する有力寺院であり、興福寺(南円堂、第九番)、醍醐寺(上醍醐准胝堂、第十一番)、石山寺(第十三番)、三井寺(観音堂、第十四番)、泉涌寺(今熊野観音寺、第十五番)、清水寺(第十六番)の6か寺が該当する。これらの寺院のうち、清水寺と石山寺は三十三所に先立つ貴族の観音信仰において対象とされた各寺院の本尊がそのまま三十三所の信仰対象となっているが、他の4か寺では対象となっているのは寺の本尊ではなく、子院の本尊であることから、たまたま庶民信仰を集めた堂舎が三十三所に連なったと見られている。 二つ目は地方の有力寺院で、青岸渡寺(第一番)を始めとして24か寺と、数的に全体の3分の2を占め、三十三所の中心的存在である。これらの寺院は多数の子院を従えた一山寺院であり、数百人、時には千人を越える僧を擁する地方の有力寺院であった。寺院の本尊と三十三所の信仰対象とは多くの場合において一致するが、三十三所巡礼寺院であることは寺の性格全体にとってあまり重要ではなかった。 例えば、一番札所である那智の本尊は今日に至るまで那智滝の本地仏たる千手観音であるが、三十三所としての本尊は如意輪観音である。千手観音とならんで如意輪観音が信仰の対象となるのは、12世紀初めごろと見られ、藤原宗忠の『中右記』にその様子が見える。宗忠は、熊野権現本殿の前に設けられ、参詣者が参籠礼拝する「礼堂」に導かれ、社僧から如意輪験所の由縁を説かれたのち、滝殿とその傍らの千手堂に参詣しており、如意輪堂は古くからの観音霊山内の新たな霊場であった。 三つ目は京都市中の中小寺院で、六波羅蜜寺(第十七番)ほか、行願寺(第十九番)、頂法寺(第十八番)に番外の元慶寺を加えた4か寺が該当する。これらの寺院は平安時代から盛んになった京都近郊の洛中洛外七観音霊場巡礼に由来する寺院である。六波羅蜜寺、行願寺、そして頂法寺は三十三所寺院であるとともに、洛中洛外七観音の一角であり、こうした京都近郊の観音巡礼寺院としての性格は清水寺や石山寺にもあてはまる。こうしたことから、三十三所の成立は、京都近郊の観音巡礼を歴史的前提とし、それらと地方の著名な観音信仰寺院との融合によるものであることが分かる。 四つ目の地方の小規模寺院は番外の菩提寺および法起院の2か寺が該当する。これら寺院はいずれも小規模な寺院であるが、三十三所巡礼の縁起にまつわる寺院であり、三十三所の隆盛とともに花山院の縁起が広く知れ渡り、参詣者を集めるようになったことで番外に加えられた。 各寺院で三十三所を支え、三十三所巡礼を行じた三十三所の担い手は、当初、山伏や前述の三十三度行者のような廻国巡礼行者、熊野比丘尼、各種の勧進聖、一般の僧侶といった宗教者の集団であって、こうした聖に導かれる形で民衆も巡礼を行っていた。こうした宗教者は、各地で勧進を募っては、集めた願物によって堂舎の造営・修造、燈明料の維持にあたっており、勧進聖としての活動を通じて一山の経済を支えていた。とりわけ室町幕府の支配の弛緩する15世紀以後、各地の寺社はかつてのように公権力の保護に依存しえなくなる。かわって、各地の寺社が依存したのが、勧進聖による本願所であった。なかでも、那智山の勧進聖たちは、各地を巡って三十三所の組織化に努めた。青岸渡寺を第一番とし、華厳寺を第三十三番とする順序が史料上に初見されるのは、勧進聖の活動が定着するのと同じ15世紀中頃のことである。さらに勧進聖たちは、巡礼の庶民を対象にした宿所を設けるなど、より多くの巡礼を招き、さらに多くの奉加や散銭を獲得することを目指した。こうした過程を経て、当初、もっぱら修行僧や修験者らのものであった西国三十三所巡礼は、室町時代中期には庶民による巡礼として定着していった。 庶民への勧進活動に当たって三十三所寺院であることが大きな効果を持つことから、一山における勧進聖の経済的役割は大きく、寺院側も堂舎の造営・修造にあたって巡礼からの奉加に期待を寄せていた。そのため、室町時代中期(戦国時代)から中世末期にかけて発された、寺院修覆のための勧進状や縁起では三十三所寺院であることが強調されるとともに、勧進状や縁起を携えて勧進を担った聖の拠点たる子院群が一山を支える状況が生み出された。しかしながら、こうした勧進聖の集団の寺院内における地位は低く、あくまで下僧としてもっぱら扱われたために正式の法会や祭礼に参加することはできなかった。有力とはいえ寺院内の一勢力に過ぎない勧進聖集団にもっぱら支えられていたという事情は、各寺院における三十三所の位置付けを低いものにとどめさせた。三十三所諸寺院の蔵する中世古文書は数千点に達するが、縁起や勧進状の類を除くと、三十三所に関係する古文書の数はわずかに十数通にすぎず、三十三所寺院であることは各寺院の持つ多様な性格の一つに過ぎなかった。
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