室町時代中期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 05:26 UTC 版)
持綱没後宇都宮氏は一門武茂氏を中心とする親室町幕府派と、同じく一門塩谷氏や重臣芳賀氏・益子氏を中心とする親鎌倉府派の二つの派閥による家督を巡る抗争が続いた。その後、塩谷氏出身の宇都宮家綱が鎌倉府から公認により、宇都宮氏の当主として認められた。しかし、永享3年(1431年)に室町幕府と鎌倉府の和睦交渉が行われた際の条件の1つに宇都宮氏の家督問題が取り上げられ、最終的に家督は幕府からの意向により持綱の遺児宇都宮等綱が14代当主として継ぐことになった。しかし、相変わらず宇都宮氏は等綱派と家綱派で2つに分裂しており、この不安定な状態は、結城合戦で家綱が討死するまで続いた。 享徳3年(1454年)に享徳の乱が勃発すると等綱は幕府から足利成氏追討の命を受けた駿河守護の今川範忠の軍勢に呼応し宇都宮勢を挙兵、鎌倉を攻め落とした。しかし、小山氏を頼り、古河に逃れた足利成氏は報復として小山持政、那須資持らによる宇都宮討伐を行い、宇都宮城を包囲した。そんな中、重臣芳賀氏や等綱の嫡男宇都宮明綱が古河府側に寝返ったため、等綱は明綱に家督を譲って出家せざるを得ない状況になり、宇都宮城から追放された。 この頃の小山氏の勢威は関東管領上杉氏に匹敵するほどで、15代宇都宮明綱と16代宇都宮正綱は小山氏当主小山持政の甥の関係であったため、宇都宮領南部や宇都宮領都賀郡を譲渡し、後見を受けることで侵攻されることを免れていた。 宇都宮正綱は塩谷氏、武茂氏といった主要な一門を臣従化させ、戦国期宇都宮家中の原型を作った。
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