室町時代前期とは? わかりやすく解説

室町時代前期(南北朝期)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/30 02:42 UTC 版)

宇多河荘」の記事における「室町時代前期(南北朝期)」の解説

1345年興国6年/貞和元年)、山内首藤時通養子松若丸(通忠)に、宇多河上荘のうち公文名屋敷田畠を譲っている。前述のように1270年、上荘の地頭職山内首藤氏安堵されるが、この譲状には当荘を含む所領が、時業までは代々、時業から一時時通の乳母経て、時通に相続されてきたことが記載されている。

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室町時代前期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/09 09:16 UTC 版)

近代以前の日本の都市人口統計」の記事における「室町時代前期」の解説

師守記』によると貞治4年1367年)に病院建設のための資金1万疋を集めるため、各家から10文を集めたという記述があり、当時京都に暮らす一般庶民1万戸約5万人と推定される高尾一彦林屋辰三郎松浦玲らは公家武家寺社関係者人口それぞれ3~4万人1万人、1万人と推定し14世紀後半から15世紀前半京都人口10万人と推定している。

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室町時代前期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/04 22:39 UTC 版)

田村地方」の記事における「室町時代前期」の解説

陸奥の地は、足利幕府が、奥州管領羽州管領探題)を通じて直接支配したが、関東公方足利氏満のときに、関東府支配下置かれるようになった。この時、田村庄司清包は足利氏満成敗逃れた小山若犬丸かくまった足利氏満は彼らを討つために、応永三年1396年)、関東十カ国の大兵団を率いて田村庄向かった。なぜなら、田村庄司清包は関東潜んでいた南朝残党勢力糾合して抵抗していたからである。清包らは、白川まで打って出たもののたちまち敗れた。これによって、田村庄三分の一は、関東公方料所となり、その支配結城満朝委ねられ、満朝の実弟小峯満政が田村庄入部した足利氏満陸奥支配をさらに強めようと、嫡子満兼のときに、弟の満貞と満直稲村須賀川市稲)、篠川郡山市安積町笹川)に下着させた(1399年)。 田村庄では、庄司家衰退によって、小国人が分立し独立性強めた関東料所設定されたため、彼らは関東公方忠勤励みつつ、不利益となる外圧抵抗しまた、分立から生まれ不安定な状況対処するために、応永11年1404年)、近隣諸地域国人領主たちと一揆契約交わしている。 この頃田村庄国人として、御代田、鬼生田下枝中津川川曲大越小沢墨田細田)、鹿俣、穴沢白石門沢常葉などの名前が見える。

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室町時代前期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 00:02 UTC 版)

佐野氏」の記事における「室町時代前期」の解説

鎌倉幕府の滅亡から建武の新政時期動向はっきりしない建武2年3年には佐野義綱と佐野王丸北朝方で活動していたのが「佐野義綱軍忠状」「佐野安房王丸軍忠状」(「落合文書」)で分かる。義綱は南朝方の同族阿曽沼氏などと戦い建武3年11月3日戦死し、跡をその子・一王丸継ぎ斯波氏に従っている。また佐野氏綱が、高師直配下として四條畷の戦い大和吉野戦い参加している。 また氏綱の子佐野太郎四郎秀綱は、足利義詮に従って貞治五年(1366年越中国所領与えられた。秀綱は名乗りから総領とみられる。また文和四年(1355年佐野越前守師綱は佐野庄内釜谷・荒居村押領し、佐々木道誉から訴えられている。江田によれば、師綱は上佐野系の分家出身で、本領佐野庄は上佐野系が勢力持ち本宗家(国基系)は越中拠点移した考えられるとしている。 応永23年1416年)、上杉禅秀の乱が起こると、佐野氏は持氏方として残党処理を行っている。一方、『鎌倉大草紙』には一族思われる佐野佐馬助が禅秀方で見える。 永享の乱および結城合戦での佐野氏動向不明。ただし持氏に近く上杉傾向だったと推測される享徳の乱では佐野氏古河公方足利成氏方に属した。しかし寛正2年1461年)、岩松持国が子・次郎とともに上杉方に転じる動揺、同4年佐野氏幕府方転じている。 また柳田後代残った系図から、佐野家総領は、国基系から上佐野分家、さらに西佐野領した分家最後に岩崎系(岩崎氏)へと移ったみなしている。

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