室町時代前期(南北朝期)
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「宇多河荘」の記事における「室町時代前期(南北朝期)」の解説
1345年(興国6年/貞和元年)、山内首藤時通が養子松若丸(通忠)に、宇多河上荘のうち公文名の屋敷田畠を譲っている。前述のように1270年、上荘の地頭職が山内首藤氏に安堵されるが、この譲状には当荘を含む所領が、時業までは代々、時業から一時時通の乳母を経て、時通に相続されてきたことが記載されている。
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室町時代前期
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「近代以前の日本の都市人口統計」の記事における「室町時代前期」の解説
『師守記』によると貞治4年(1367年)に病院建設のための資金1万疋を集めるため、各家から10文を集めたという記述があり、当時京都に暮らす一般庶民は1万戸約5万人と推定される。高尾一彦、林屋辰三郎、松浦玲らは公家、武家、寺社の関係者人口をそれぞれ3万~4万人、1万人、1万人と推定し、14世紀後半から15世紀前半の京都の人口を10万人と推定している。
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室町時代前期
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陸奥の地は、足利幕府が、奥州管領、羽州管領(探題)を通じて直接支配したが、関東公方、足利氏満のときに、関東府の支配下に置かれるようになった。この時、田村庄司清包は足利氏満の成敗を逃れた小山若犬丸をかくまった。足利氏満は彼らを討つために、応永三年(1396年)、関東十カ国の大兵団を率いて田村庄に向かった。なぜなら、田村庄司清包は関東に潜んでいた南朝の残党勢力を糾合して抵抗していたからである。清包らは、白川まで打って出たもののたちまち敗れた。これによって、田村庄の三分の一は、関東公方の料所となり、その支配は結城満朝に委ねられ、満朝の実弟小峯満政が田村庄に入部した。足利氏満は陸奥の支配をさらに強めようと、嫡子満兼のときに、弟の満貞と満直を稲村(須賀川市稲)、篠川(郡山市安積町笹川)に下着させた(1399年)。 田村庄では、庄司家の衰退によって、小国人が分立し独立性を強めた。関東の料所が設定されたため、彼らは関東公方に忠勤を励みつつ、不利益となる外圧に抵抗し、また、分立から生まれる不安定な状況に対処するために、応永11年(1404年)、近隣諸地域の国人領主たちと一揆契約を交わしている。 この頃の田村庄の国人として、御代田、鬼生田、下枝、中津川、川曲、大越、小沢、墨田(細田)、鹿俣、穴沢、白石、門沢、常葉などの名前が見える。
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室町時代前期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 00:02 UTC 版)
鎌倉幕府の滅亡から建武の新政の時期の動向ははっきりしない。建武2年~3年には佐野義綱と佐野一王丸が北朝方で活動していたのが「佐野義綱軍忠状」「佐野安房一王丸軍忠状」(「落合文書」)で分かる。義綱は南朝方の同族・阿曽沼氏などと戦い、建武3年11月3日に戦死し、跡をその子・一王丸が継ぎ、斯波氏に従っている。また佐野氏綱が、高師直の配下として四條畷の戦いや大和・吉野の戦いに参加している。 また氏綱の子・佐野太郎四郎秀綱は、足利義詮に従って貞治五年(1366年)越中国に所領を与えられた。秀綱は名乗りから総領系とみられる。また文和四年(1355年)佐野越前守師綱は佐野庄内の釜谷村・荒居村を押領し、佐々木道誉から訴えられている。江田によれば、師綱は上佐野系の分家出身で、本領の佐野庄は上佐野系が勢力を持ち、本宗家(国基系)は越中へ拠点を移したと考えられるとしている。 応永23年(1416年)、上杉禅秀の乱が起こると、佐野氏は持氏方として残党処理を行っている。一方、『鎌倉大草紙』には一族と思われる佐野佐馬助が禅秀方で見える。 永享の乱および結城合戦での佐野氏の動向は不明。ただし持氏に近く反上杉の傾向だったと推測される。 享徳の乱では佐野氏は古河公方足利成氏方に属した。しかし寛正2年(1461年)、岩松持国が子・次郎とともに上杉方に転じると動揺、同4年に佐野氏も幕府方へ転じている。 また柳田は後代に残った系図から、佐野家総領は、国基系から上佐野の分家、さらに西佐野を領した分家、最後に岩崎系(岩崎氏)へと移ったとみなしている。
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