吉良朝氏とは? わかりやすく解説

吉良朝氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/23 15:39 UTC 版)

 
吉良朝氏
時代 室町時代前期
生誕 不明
死没 応永35年4月25日1428年6月8日
戒名 光栄寺殿
官位 右兵衛督
氏族 後期東条吉良(下吉良)氏
父母 父:吉良尊義(義貴)
持長
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吉良 朝氏(きら ともうじ)は、室町時代前期の武士後期東条吉良(下吉良)氏2代当主。三河国東条城主。

吉良尊義(義貴)の嫡男として誕生した。右兵衛督[1]、東条中務[2]を称する。

朝氏の代(あるいは尊義の代の最末期)と見られる応永19年(1412年2月6日、八幡山(現在の西尾市吉良町岡山八幡山)において合戦があり西条吉良勢6人が討死した、という記録がみられる[3]。西条吉良勢の相手は記されていないが東条吉良勢と思われ、父の代の惣領争いの遺恨が未だ残っており合戦に及んだのではないかと考えられている。

基本的に在京奉公をしていたと考えられ、応永31年(1424年12月30日には三宝院満済の許へ歳末の礼に訪れている[4]。この時は「吉良東条来臨」と記され未だ出家していない。

応永35年(1428年4月25日、「三日病」により病死した[5]。「吉良東条入道死去云々」とあり、おそらく足利義持死去(同年1月18日)に際して入道したのではないかとされている。

脚注

  1. ^ 群書類従本吉良系図』・『寛永諸家系図伝』による。
  2. ^ 『養寿寺本吉良系図』による。祖父満義、父尊義ともに中務大輔に任じられたことが史料により判明しており、これに倣い同職に任じられたと考えられる。
  3. ^ 『花岳寺旧蔵大般若経奥書写』(『新編西尾市史 資料編2 古代・中世』 421-423頁)。同史料には尊義の院号である「霊源寺」の文言がみられ(応永20年(1413年)6月22日条)この時までに尊義が没していることが判る。
  4. ^ 『満済准后日記』応永31年12月30日条。
  5. ^ 『満済准后日記』応永35年4月25日条。

参考文献

  • 吉良町史編さん委員会編『吉良町史 中世後期・近世』愛知県吉良町、1999年3月19日、21-23頁。
  • 新編西尾市史編さん委員会編『新編西尾市史 通史編1 原始・古代・中世』愛知県西尾市、2022年10月、419-420頁。
  • 新編西尾市史編さん委員会編『新編西尾市史 資料編2 古代・中世』愛知県西尾市、2020年5月、421-423、426-427頁。
  • 小林輝久彦『戦国史研究叢書21 中世後期三河吉良氏の研究』岩田書院、2025年2月、62-66頁。ISBN 978-4-86602-183-6




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