一般庶民
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/05 05:04 UTC 版)
「ローマ帝国時代の服飾」の記事における「一般庶民」の解説
庶民の男性は、正装として腿丈のトゥニカの上から無地無染色の自然のままの羊毛の色、すなわち濃いベージュ色のトガを着た。トガを着つけるのは非常に煩わしかったので、紀元前1世紀ごろから日常ではトゥニカを二枚重ね着したり、ギリシア風外套を着るのが普通になっていた。トゥニカはギリシアのキトンから発展したもので、ウールでできた大判のTシャツのような服で、五分袖から七分袖程度の袖が付き、膝下丈か労働時にはベルトでたくしあげて膝上丈で着た。袖や裾が長いものは柔弱だと言って嫌われた。 トガが現在のスーツにあたるものと考えれば、トゥニカはシャツとジーンズのようなものであり、貧しい市民はトゥニカだけを衣類としていた。パルリウムというヒマティオンから発展した外套が広くつかわれた。他に、ガリア人から取り込んだサグムやパルダメントゥムという肩で留めるマント、ラケルナという前で留めるマント、ペヌラというフードをつけられることもあった冬用のケープなども用いられた。染料として藍と茜は容易に手に入り、トゥニカは色つきのものが多かった。 帝政の初めごろにゲルマン人の民族服に由来するブラカエというウールのズボンが伝えられた。ゲルマン人にとっては寒い気候や危険な湿地から体を守るために必要な長ズボンだったが、ローマ人には野卑な服装に見えたらしく、股引のように半ズボンに仕立てて防寒用としてこっそりと身に着けていた。一般的にはローマの男性はスブリガークルムと呼ぶ短い腰巻を下着としていた。 聖書にもキリスト磔刑に臨んで、イエスの継ぎ目のない下着を四人の兵士がくじ引きで分けたとあり、その布片は「聖衣」と呼ばれて信仰の対象となる。 貧しい自由市民は2世紀の初めごろから流入した、ダルマティカという長袖の粗末なチュニックを身に付けた。3世紀ごろにはキリスト教徒のユニフォームのようになり、4世紀にいたって第一礼装として完全にトガを駆逐した。 外套を留めるために使われたフィブラというピンブローチは、ギリシアの青銅製の実用一辺倒のものと違って、エナメルや七宝が施されてファッション性が増した。また、禿げた頭を気にして鬘をかぶることもあった。
※この「一般庶民」の解説は、「ローマ帝国時代の服飾」の解説の一部です。
「一般庶民」を含む「ローマ帝国時代の服飾」の記事については、「ローマ帝国時代の服飾」の概要を参照ください。
一般庶民
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/05 05:04 UTC 版)
「ローマ帝国時代の服飾」の記事における「一般庶民」の解説
女性は家庭を守るのが美徳であり、既婚女性は踵丈のチュニックを日常着としていたが、未婚の女性はやや短い丈のものも着ることがあった。下着として男性より薄くて小さな腰布とストロピウム(strophium、またはマッミラーレとも)という胸を寄せてあげるための(しばしば詰め物もなされた)胸帯を身に付け、ゾーナと言う胸下から下腹を覆う帯を巻き、袖のない膝丈のチュニックの上からカスチュラというアンダースカートをはいて上着のチュニックを着た。 庶民の女性も名門の女性も、キトンそのままのチュニック型衣装をストラと呼んで身に着けていた。キトンとの違いは、キトンが腰紐一本で着つけるのに対して、ストラは普通胸下にもタエニア(Taenia)という紐を巻いてバストを強調していることぐらいである。その上に、外套としてパルラというヒマティオンとほぼ同じ一枚布を身に着けていた。これはベールのように頭に被ることもあり、宗教画における聖母マリアの髪を覆うベールのようなものは実際はパルラである。女性靴はたいてい白い華奢なサンダルであった。 ストラは「廉恥のストラ」とも呼ばれて、姦通者や売春婦には着ることが許されず、トガを着させられた。娼婦たちは透けるトゥニカ一枚を着て、宝石の付いた小さな飾りリボンを膝の上に縛ってちらちらと見せつけることで客を興奮させた。彼女たちの髪は明るいオレンジか青色に染めることが強制されていたため、薄暗い街角でも遊女屋を見つけるのは容易かった。 貧しい自由市民の女性は2世紀の初めごろから流入した、ダルマティカという長袖の粗末なチュニックを身に付けた。女性のものは男性より丈が長く、踝丈であった。キリスト教徒の女性はつつましさを表すためにヴェールで髪を覆うことを好んだ。3世紀ごろにはキリスト教徒のユニフォームのようになり、4世紀にいたって第一礼装として完全にトガを駆逐した。
※この「一般庶民」の解説は、「ローマ帝国時代の服飾」の解説の一部です。
「一般庶民」を含む「ローマ帝国時代の服飾」の記事については、「ローマ帝国時代の服飾」の概要を参照ください。
一般庶民
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/20 01:34 UTC 版)
庶民の男性は、亜麻かウールの一枚布を左肩でピンでとめてベルトを締め、右肩をむき出しにして着つけていた。外出時にはウールでできたヒマティオンや丈の短いクラミード、冬用の厚手の外套クライナやシシュラ(こちらは山羊の毛)といった一枚布を巻くだけの外套を着たが、ごく貧しい人や哲学者などはヒマティオン一枚をエクソミスにして身に着けるか、その上にトリボーンという粗い織物の粗末な外套を着た。亜麻の衣服はキトンといい、女性のものと同じように両肩を留めて着ることもあった。 色は多くは自然のままのものを使ったが、縁に縞を織りだすなど染色も行われていた。外套は比較的高級なものになると濃い色で染められており、白や薄色が多いキトンとは対照をなしていた。 腰を締めるベルトは革製で青銅製のバックルがついており、肩を止めるピンは安全ピンのように針に覆いが付いたポルパイというものを使っていた。日除けのために現代の帽子の起源とされるつばの広いペタソスという革製帽子もあった。
※この「一般庶民」の解説は、「古代ギリシアの服飾」の解説の一部です。
「一般庶民」を含む「古代ギリシアの服飾」の記事については、「古代ギリシアの服飾」の概要を参照ください。
一般庶民
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/20 01:34 UTC 版)
庶民の女性は、質実剛健な風土があり古風を重んじるスパルタなどでは従来どおりウールの衣服を身につけていたが、多くは亜麻の一枚布を襞を取って着つけていた。キトンには大きく分けて二種類の着つけがあり、従来のペプロスと同じ着つけのドーリア式と新たに導入されたイオニア式と呼ばれる。 ドーリア式は、脇を縫わないか下半分だけ縫うものから完全に筒型になった後期のペプロスから発展した。大きな筒型の亜麻布の上端を表に折り返して両肩をピンで留め、腰にたるみを持たせて帯を締めた。 イオニア式は、二枚の布の両端を上から少し縫い残して着て、左右の肩から手首までを数か所ピンで留めたもの。腰をベルトで締めるほか、たすきのように紐で上半身をくくるなどしてあるために袖があるように見えた。二種類のキトンを重ね着することもあり、好みで使い分けた。外出時にはウールでできたヒマティオンや丈の短いクラミディオンといった一枚布を巻くだけの外套を着た。 アテナイなどの女性は家の奥で家族以外とは会わずに過ごすことが美徳とされたが、スパルタなどでは運動が奨励された。スパルタの少女の像には女神アルテミスの狩装束のように短くたくしあげたペプロスを着たものがあり、活発な女性などにはこうした軽快な着つけがされたものらしい。 壺絵などに胸下にアポディスムと呼ばれる胸帯を身に付けた女性の姿も描かれ、現在のブラジャーのように胸を保護する場合もあると思われる。少女のものには、アナマスカリステルもしくはマストデトンと呼ばれる赤い細帯を胸から腰まで巻くものがあった。また、下腹に巻く帯をゾーナといい、補正下着の一種としていた。
※この「一般庶民」の解説は、「古代ギリシアの服飾」の解説の一部です。
「一般庶民」を含む「古代ギリシアの服飾」の記事については、「古代ギリシアの服飾」の概要を参照ください。
一般庶民
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/30 17:59 UTC 版)
「新世界 (本沢みなみ)」の記事における「一般庶民」の解説
ルーイ 主人公。14歳。糖蜜色の髪、緑色の瞳を持つ。 半年前までダリルと共に2人で暮らしていたが死別したため、ライ達のような親なしの仲間と一緒に暮らす。ある晩、ライが率いる少年盗賊グループと共に盗みに入った屋敷でリリアを発見し、連れて帰る。その半年後にシキ達によってリリアを奪還され、取り戻すために忍び込んだシキの屋敷でカイと出会う。その数日後、場内でのパーティの最中に再び奪い返し、エリスニアから離れ、リリアが生まれたプレトリアへと契約を交わしたカイと共に旅を始める。 ライ ルーイの親友。赤茶の髪を持つ。ストリートで暮らす少年たちのリーダー格で快活な少年。リリカと供にルーイを追いかけて旅を始めた。 リリア 黒髪にピンクの瞳を持つ「鍵見の少女」。 エリスニアで囚われていたが、ルーイの手によって救出され彼と供に「新世界」を目指す。言葉はほとんど発しないが、ルーイ相手には喋る。 リリカ 橙色の髪とピンクの瞳を持つ盗賊の少女。リリアとそっくりの容姿をしているため、リリアの身代わりをさせられていた。現在はライたちと旅をしている。 コーキ ユート リイザ ダリル
※この「一般庶民」の解説は、「新世界 (本沢みなみ)」の解説の一部です。
「一般庶民」を含む「新世界 (本沢みなみ)」の記事については、「新世界 (本沢みなみ)」の概要を参照ください。
一般庶民
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/28 06:03 UTC 版)
肌着となるチュニックの上にダルマティカを重ねた。ダルマティカは女性のものより短いとはいえ、おそらく膝下丈より長いものであった。上着としてはパリウムという巻き布を用いていたと考えられている。この服飾は西欧の王族に盛んに真似られ、大流行した。前時代にゲルマン人達が着ていたチュニックが「尻が見える衣装」と評されていたことからして、ゲルマン人は元々尻丈ほどのごく短いチュニックを着ていたものと思われる。
※この「一般庶民」の解説は、「ビザンツの服飾」の解説の一部です。
「一般庶民」を含む「ビザンツの服飾」の記事については、「ビザンツの服飾」の概要を参照ください。
一般庶民
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/28 06:03 UTC 版)
幅の狭い長袖のチュニックの上に、肩から腕を小型のブローチで留めるストーラか踝丈の広袖チュニックであるダルマティカを重ねて着ていた。チュニックの腰にはベルトを締め、外套としてパルラという一枚布を纏った。
※この「一般庶民」の解説は、「ビザンツの服飾」の解説の一部です。
「一般庶民」を含む「ビザンツの服飾」の記事については、「ビザンツの服飾」の概要を参照ください。
「一般庶民」の例文・使い方・用例・文例
- 一般庶民のページへのリンク