しち‐ほう【七宝】
読み方:しちほう
1 仏教で、7種の宝。無量寿経では金・銀・瑠璃(るり)・玻璃(はり)・硨磲(しゃこ)・珊瑚(さんご)・瑪瑙(めのう)。法華経では金・銀・瑪瑙・瑠璃・硨磲・真珠・玫瑰(まいかい)。七種(ななくさ)の宝。七珍。しっぽう。
2 ⇒しっぽう(七宝)2
しっ‐ぽう【七宝】
しっぽう 【七宝】
七宝
名称: | 七宝 |
ふりがな: | しっぽう |
芸能工芸区分: | 工芸技術 |
種別: | その他 |
選択年月日: | 1957.03.30(昭和32.03.30) |
選択要件: | |
備考: | |
解説文: | 七宝【しつほう】の起源はエジプトといわれ、中国には漢代、わが国には奈良期の遺品がある。正倉院宝物の七宝鏡をはじめ、牽牛子塚【あさがおづか】出土の金具、鳳凰堂の扉金具は有名である。名古屋市と七宝町には、天保年間、梶常吉が創始し、その後ワグナー、安藤重兵衛らが改良した技法が伝えられる。京都や東京にも同種の技法をみるが、特に名古屋市と七宝町の七宝は知られている。七宝は、素地の上にガラス質の色釉を盛り、これを窯に入れ熱して熔着させ、さらに研磨を加えて工芸品を装飾する技法である。素地は、用材により銅胎【どうたい】、銀胎【ぎんたい】、陶胎【とうたい】に区別される。釉薬を区画する針金の存否による有線、無線七宝、釉薬を盛上げる盛上七宝など、各種の技法区分があり、従事する各工程ごとに専門の技術者が存在する。それらの中、素地師菱田光治、線付師早川慶五郎、釉薬師早川義一、研磨師柴田善次郎錺【かざり】師栗田栄三郎らのもつ特に貴重な技法が国によって記録され、保存されている。 |
七宝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/07 14:20 UTC 版)
七宝(しっぽう)とは、主に金属の素地にガラス質の釉を焼きつけて装飾する技法、および、その製品。古今東西世界各地で類例が見られる。日本における名称の由来は、仏教用語の「七宝(しちほう)」あるいは「七宝瑠璃」まで遡り、時代や地域によって「七宝流し」、「びいどろざ」、「七宝象嵌」など変遷してきた。
注釈
- ^ 2006年6月と2007年2月に行われた早稲田大学理工学術院の宇田応之名誉教授らによるツタンカーメンの黄金のマスク (cf. ) の科学調査(複合X線分析装置による調査)によれば、髭の部分の灰緑色の物質は長石や珪酸ナトリウムを主成分とする人工ガラスであり、七宝の釉薬に似た材料が用いられていたことが証明されている。──雑誌『金属』Vol.77 No.9〜12、アグネ技術センター。
- ^ 鳳凰堂の扉止め金具は、鳳凰堂の扉のある左右側面一間、正面三間の下框に各2個ずつ、計10個が現存しており、その青緑色の物質がガラス質(七宝釉)であるかは、科学的な分析が必要である
- ^ 近世七宝で製作年を確認できている作例は、二条城二の丸御殿黒書院帳台構(ちょうだいがまえ)(寛永3年〈1626年〉)など、江戸時代初期までしか遡れていない。──麓和善『錺 − 建築装飾にみる金工技法4 金工芸術の精華』
- ^ 嘉長が引手を製作したと伝えられる松琴亭は1620年(元和6年)に造営着手したと考えられているが、これを含む茶屋・書院・庭園などの造営は、八条宮家初代当主・智仁親王(1579-1629年)によって基礎が築かれ、第2代・智忠親王(1619-1662年)に引き継がれ、数十年間をかけて整備された。
- ^ 横井時冬「工芸鏡」, 鈴木規夫「日本の美術3 七宝」凸版印刷株式会社, 鈴木規夫 榊原悟「日本の七宝」
- ^ 平田道仁が朝鮮人から中国式七宝技術を学んだとするのが通説であるが、それ以前にも、豊臣秀吉が天正15年(1587年)に築造した聚楽第に使用された釘隠と伝えられる違例(夕顔文釘隠など)や、南蛮貿易で成功した菜屋助左衛門(別称ルソン助左衛門)の堺の豪邸を日本の金工師が七宝で飾る技量を持っていた記録が残っているなど、日本で最初に七宝が作られた時期については定かでない(栗原信充『金工概略』、森秀人『七宝文化史』近藤出版社)
- ^ 御職人(おしょくにん。藩御抱の職人)とは異なる。明治時代以降の御用達職人とも異なる。
- ^ 平田七宝はここで断絶したが、平田家はそれ以降も続いている。「平田家が終わった」「平田の家系は11代続いた」などとする資料もあるが、これらは言葉足らずで、言わんとしているところは「“七宝の平田家”は(桃山時代から大正時代まで)11代続いて終わった」ということである。
- ^ 京都では、鋳造器に七宝を入れたものも泥七宝と呼んだ。
- ^ 明治時代には、京都の三条大橋から三条白川橋一帯には20軒を超える七宝焼業者が軒を連ねていた。(京七宝 並河靖之作品集 淡交社)
出典
- ^ 山下 大輔, 石崎 温史, 宇田 応之、「ポータブルX線回折・蛍光X線分析装置の開発と考古学への応用」 『分析化学』 2009年 58巻 5号 p.347-355,doi:10.2116/bunsekikagaku.58.347、日本分析化学会
- ^ “ツタンカーメン王の黄金のマスクの測定”. 公式ウェブサイト. 理研計器株式会社. 2019年4月8日閲覧。
- ^ a b "光彩の巧み-瑠璃・玻璃・七宝-", 五島美術館, p.7
- ^ 大和国高市郡牽牛子塚古墳出土品 - 文化遺産オンライン(文化庁)
- ^ 植田兼司, 福庭万里子「[資料紹介 牽牛子塚古墳の夾紵棺片 : 植田兼司氏採集遺物]」『関西大学博物館紀要』第15巻、関西大学博物館、2009年3月31日、1-55頁、2019年4月8日閲覧。
- ^ 藤ノ木古墳 金銅製鞍金具(前輪) - 文化遺産オンライン(文化庁)
- ^ a b 至文堂『日本の美術3 No.322 七宝』1993年。
- ^ “口絵1 黄金瑠璃鈿背十二稜鏡” (PDF). 正倉院(公式ウェブサイト). 宮内庁. 2019年4月8日閲覧。※画像あり。
- ^ 麓 和善 (2009年9月24日). “4. 金工芸術の精華 − 名古屋城本丸御殿・二条城二の丸御殿・百工比照 - 『錺 -建築装飾にみる金工技法』” (PDF). Index of /02/kazari. 麓和善. 2019年4月8日閲覧。※画像あり。
- ^ a b c d e f マリア書房『日本の七宝』1979年。
- ^ 雑誌『なごみ』1998年6月。
- ^ 『Arts of East and West from World Expositions, 1855-1900:Paris, Vienna and Chicago, 世紀の祭典 万国博覧会の美術』
- ^ 平塚茂兵衛 鳳凰文七宝香炉 (文化遺産オンライン)
七宝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 19:40 UTC 版)
小堀遠州は、茶室などの空間設計の一環に七宝細工による色彩や装飾を本格的に取り入れた(伝承上の)最初の人物である。遠州は、豊臣秀吉に仕えていた金工師の嘉長を登用し、戸袋や襖の引き手など七宝細工の製作にあたらせたと伝えられている。嘉長は伊予(現在の愛媛県)松山の生まれの金工で、京都の堀川油小路に住んでいた。 桂離宮の松琴亭の二の間戸袋の巻貝形七宝引手は遠州の指導により意匠をさずけられた嘉長の作という。京都の桂離宮、曼殊院、修学院離宮、大徳寺などの七宝引手や釘隠しは、今でも建屋の中で使われている状態を見ることができる。千利休や古田織部好みの茶室などと比較すると、七宝による装飾は遠州好みの書院風の空間によくなじむ。 なお、小堀家の家紋「花輪違紋」は「七宝花菱」とも呼ばれているが、これは、輪違い連続文様における一つの輪が四方へと無限に広がる様子、「四方」が「七宝」に転じたものという説や、「花輪違」は四個の輪からできており「四方襷(しほうたすき)」あるいは「十方」などとも呼ばれたことから、「十方」がなまって「七宝」に転じたという説がある。 ところで、七宝細工を意味する「七宝瑠璃」という語は、室町時代、足利義政が将軍の頃から使われているが、七宝瑠璃と七宝紋の関係については不明である。遠州以前の室町時代、利休の茶の湯の隆盛の下では、華麗な色彩が身上の七宝器は茶人の受け入れるところではなかったという。豊かな色彩や装飾性が一般に受け入れられるようになったのは、遠州や琳派の時代(桃山時代以降)を迎えてからのことであった。
※この「七宝」の解説は、「小堀政一」の解説の一部です。
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