鳳凰堂とは? わかりやすく解説

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ほうおう‐どう〔ホウワウダウ〕【鳳凰堂】

読み方:ほうおうどう

京都府宇治市にある平等院阿弥陀堂別称中堂左右翼廊・尾廊からなり鳳凰が翼を広げた形に似るところからこの名がある本尊阿弥陀如来像は、平安後期定朝(じょうちょう)作。国宝


鳳凰堂

読み方:ホウオウドウ(hououdou)

正称 平等院

宗派 単立

所在 京都府宇治市

本尊 阿弥陀如来

寺院名辞典では1989年7月時点の情報を掲載しています。

平等院

(鳳凰堂 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/23 18:34 UTC 版)

平等院(びょうどういん)は、京都府宇治市宇治蓮華にある単立寺院山号は朝日山[* 1]本尊阿弥陀如来開基藤原頼通開山明尊


注釈

  1. ^ a b 平等院の山号「朝日山」の読みを明示した公式あるいは研究者による資料は確認できていない。信仰対象の山の名は「朝日山(あさひやま)」であるが、山号になると「○○サン」「○○ザン」と読み換えることが多く(※本件の場合は湯桶読み)、場合によっては全て音読みに変わる(※本件で想定すれば『チョウジツサン』など)。平等院の山号は「あさひさん」と読むのではないかという常識的推定はできるが、確証は無い。
  2. ^ a b 木瓦葺(こがわらぶき、きがわらぶき)とは、 平瓦と丸瓦とを交互に組み合わせて並べる瓦葺(かわらぶき)の手法。また、それで造った屋根。
  3. ^ 残っている1560枚のうち向山瓦窯製は1273枚で、後は奈良で製造された瓦とされている。
  4. ^ 菩薩像は本尊の左右(南北)の壁に各26対ずつ懸けられており、北1号 - 北26号、南1号 - 南26号の整理番号が付けられている。南26号像は長らく「番外」とされ、国宝指定外であったが、2008年(平成20年)に国宝に追加指定された。
  5. ^ 北23号と南6号像は作風から鎌倉時代の補作とされている。出典は、特別展図録『国宝平等院展』、東京国立博物館ほか、2000年(平成12年)。
  6. ^ 鳳凰堂内にはレプリカ像も含め30数体が残っている。

出典

  1. ^ 小埜雅章「仏とともに観想する景色 平等院阿弥陀堂池庭」『別冊太陽 平等院 王朝の美 国宝鳳凰堂の仏後壁』、p.90
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  6. ^ 上島享「中世庄園制の形成過程-〈立庄〉再考」『日本中世社会の形成と王権』名古屋大学出版会、2010年(平成22年) ISBN 978-4-8158-0635-4 所収
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  41. ^ a b c d e 国宝・平等院鳳凰堂で大量の平安期の瓦 修理で確認 『産経新聞』 2月14日(木)23時40分配信
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  50. ^ 平等院鳳凰堂を無断撮影してジグソーパズルに 在庫廃棄などで平等院と玩具会社和解 京都地裁”. 京都新聞. 京都新聞社 (2020年10月12日). 2022年10月17日閲覧。



鳳凰堂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/26 13:50 UTC 版)

平等院」の記事における「鳳凰堂」の解説

鳳凰堂(ほうおうどう)は、天喜元年1053年)に建立され阿弥陀堂であり、国宝である。「鳳凰堂」の呼称後世のもので、平安時代記録では固有の名称ではない「阿弥陀堂」あるいは「御堂となっている。堂内須弥壇格狭間嵌め込まれ金銅板の延宝8年1680年)の刻銘に「平等院鳳凰堂」とあり、このことから、江戸時代初期にあたるこの時期までには「鳳凰堂」の名が生まれていたことがわかる。江戸時代中期地誌山州名跡志』(正徳元年1711年)刊)にも「鳳凰堂」の名が見える。 本尊である国宝阿弥陀如来坐像仏師定朝確証ある現存唯一の作品である。定朝は、大陸風を脱して和様仏像様式生み出した日本仏教彫刻史上重要な仏師であるが、長い歴史のうちに鳳凰堂の阿弥陀如来坐像以外の作品ことごとく失われた考えられている。 本尊安置する須弥壇螺鈿や飾金具装飾されていたが、螺鈿全て脱落している。現状では剥落著しいが、堂内の扉や壁は極彩色絵画飾られ天井にも彩色文様施されていた。長押(なげし)上の壁には楽器奏で舞いを舞う姿の供養菩薩像浮き彫り現存52体)があり、本尊頭上には精巧な透かし彫すかしぼり)の天蓋を吊る。 鳳凰堂は建造物としては中堂、北翼廊南翼廊、尾廊の4棟からなる阿字池の中島に東を正面として阿弥陀如来坐像安置する中堂建ち、その北と南(向かって右と左)にそれぞれ翼廊南翼廊接続して建ち中堂の西(背後)に接続して尾廊が建つ。中堂石積基壇上に建つ。この基壇壇上基壇称し地覆石じふくいし)、羽目石(はめいし)、束石つかいし)、葛石(かつらいし)からなる格式の高いものである中堂外観2階建てのように見えるが、建築構造としては一重裳階付(いちじゅうこしつき)である。裳階とは、身舎(もや、建物主要部)の周囲差し掛けられた屋根部分を指す。身舎入母屋造本瓦葺組物三手先みてさき)、中備なかぞなえ)は間斗束けんとづか)、軒は二軒繁垂木ふたのきしげだるき)とし、棟上一対銅製鳳凰を置く。なお、保存上の観点から、1968年以降棟上にはレプリカ鳳凰設置されており、実物別途保管されている。垂木地垂木円形断面飛檐垂木(ひえんたるき)を方形断面とする「地円飛角」という、奈良時代以来形式である。軒には支輪設け支輪部分には宝相華文を描く。身舎規模桁行正面)3間、梁間奥行)2間とする(ここで言う「間」は長さの単位ではなく柱間の数を表す建築用語。以下同じ)。身舎円柱頭貫かしらぬき)と内法長押うちのりなげし)で固める。この3間×2間の身舎周囲東西南北とも1間裳階が付く。裳階屋根本瓦葺、軒は二軒繁垂木で、組物平三斗中備間斗束である。裳階垂木身舎異なり地垂木飛檐垂木ともに面取りの角垂木である。裳階身舎との間には繋虹梁(つなぎこうりょう)を渡す。裳階大面取り角柱とし、これらを頭貫飛貫(ひぬき)で繋ぐ。ただし、飛貫当初はなく、後世補強のために入れたのである裳階正面東面中央間は屋根一段高切り上げて外観変化もたせるとともに、池の対岸から本尊阿弥陀如来坐像拝するように設計されている。身舎正面中央間の扉を開けると、その内側の格子には軍配形の窓が開けられ阿弥陀如来面相見えるようになっている裳階屋根上には高欄設けるが、これは実用的なものではない。日本一般的な仏堂建築身舎前後または四周に「庇」と呼ばれる部分があり、裳階が付く場合は、庇のさらに外側に付けるが、鳳凰堂中堂身舎裳階のみで庇のない特徴的な構造になる。身舎円柱は径2尺(約60cm)ある太いものであるが、周囲裳階とりまいているため、外観では身舎の太いが目立たなくなっており、これによって建物全体軽快見せている。裳階も幅8寸5分(約27cm)あるが、大面取り施され断面八角形に近い柱形になっているため、実際より細く見える。中堂前述のように身舎裳階のみで庇を設けない特異な構造であることに加え屋根の出が非常に大きく構造的に不安定な建物になっている身舎屋根先端部は、裳階屋根先端部や基壇端部よりもさらに外側突き出ている。明治期修理以前の古写真をみると、中堂には、屋根垂れ下がり防止するための突っかえ棒が設置されて、外観損ねていた。こうした構造加え境内からは創建当初の瓦がほとんど出土しないこともあり、当初の鳳凰堂は屋根大きな荷重掛かる本瓦葺きではなく木瓦葺きだったではないか推定されている。木瓦葺とは、外観を瓦に似せた板で屋根を葺くもので、平安時代実物としては中尊寺金色堂のものが唯一現存する。 鳳凰堂の修理は、近代以降では1902年明治35年)から1907年明治40年)にかけての明治修理半解修理が行われ、1950年昭和25年)から1957年昭和32年)にかけて解体修理が行われている。 次に中堂室内状況について説明する前述のように身舎正面3間、側面2間であるが、裳階西側裏側部分室内取り込んでおり、この部分含んだ全体板敷の1室としている。裳階東・北・南の3面吹き放し建具や壁を入れない)とし、切目縁簀子縁)を設ける。すなわち、石積基壇の上直接、縁を乗せた形になる。室内身舎後寄りに、中央部分石敷きとした須弥壇設け本尊定朝阿弥陀如来坐像安置する阿弥陀像の頭上には木造天蓋を吊る。須弥壇周囲には高欄設け後方左右に壇上上がる階段設ける。須弥壇外面漆塗とし、螺鈿装飾されていたが、螺鈿はすべて脱落している。中堂柱間装置以下のとおりである。身舎正面東面)は3間とも両開き板扉で、室内側には格子立て込む身舎側面(北・南面とも)の前間正面と同様、両開き板扉で、室内側には格子立て込む身舎側面(北・南面とも)の後間は、外面腰長押入れそれより上を連子窓、下を土壁としている。ただし、この連子窓見かけだけで、室内側は全面板壁になっている前述腰長押外面だけに打たれている。身舎西側中央間を板壁、その両脇の間は開放とし、裏手裳階部分と一体の空間形成している。身舎西側中央間の板壁は他の壁と接していない独立壁で、本尊阿弥陀像の背後位置することから「仏後壁(ぶつごへき)」と称される西側裳階部分は、西面中央間のみを両開き板扉(尾廊へ通じる)とし、他の柱間土壁とする。身舎内法長押上の小壁外見上は土壁見えるが、実際板壁に土を塗ったのである東西南北各面の内法長押より上、頭貫より下の壁面には計52躯の雲中供養菩薩像取り付けていたが、うち半数26躯は平等院ミュージアム鳳翔館に移動している。室内には前後方向虹梁を2本掛け渡し組入天井支えている。 堂内は、板扉と板壁には『観無量寿経』の所説による『九品来迎図(くほんらいこうず)』などの壁扉画(へきひが)があり、長押、貫、組物天井などの部材はすべて彩色施されていたが、現状はいずれ剥落著しい。正面3間の扉(計6面)、側面(北・南面前間の扉(計4面)、側面後間の板壁北面南面2面)には九品来迎図描かれ背面裳階中央扉(2面)には日想観図が描かれていた。日想観とは、『観無量寿経』の所説よるもので、西方阿弥陀浄土往生するための16段階一つとして沈みゆく夕陽観想するのである。仏後壁身舎西側中央壁)の前面背面にも絵画がある。このうち背面九品来迎図一部であるが、前面の絵は剥落激しく主題制作年代について諸説ある。板扉のうち、正面中央間のものは傷み激しかったため、江戸時代初期寛文10年1670年)に新しい扉に取り換えられ、絵も新たに描かれている。扉と板壁以外の堂内部材は、宝相華文主体とする彩色文様装飾されていた。宝相華文平の帯で区切り宝相華文背景にして菩薩像童子像を描く。長押頭貫などの平材は、花文を一定間隔描き残り空間繧繝彩色の条帯文とする。 中堂柱間装置のうち、正面各間と側面前間創建当初から板扉であったが、側面後間と仏後壁は以下のような改造経ていることが解体修理時の調査判明している。 (当初側面後間は板扉、仏後壁土壁であり、背面裳階部分腰長押から上を外面連子窓室内側は板扉としていた。 (第一次改造創建直後、または創建時工事途上側面後間の板扉を、外面連子窓内面土壁変更した。 (第二次改造)仏後壁前面板壁背面土壁にした。側面後間と仏後壁補強のために筋違入れた。各面の内法長押上の小壁土壁から板壁変えた。 (第三次改造側面後間の土壁板壁とし、仏後壁背面板壁にした。側面後間と仏後壁筋違除去した。各面の小壁は、内法長押の上頭貫の下にあたる位置飛貫挿入した背面裳階部分連子窓はこの時に廃され土壁になったとみられる。 以上の改造がいつ行われたかは正確に不明であるが、建築史家おおむね13世紀までには第三次改造終わったとみている。改造理由については、前述のとおり、当初の鳳凰堂は木瓦葺(こがわらぶきであったとみられ、木瓦葺からより重量大き本瓦葺き変更するに際して補強のために改造が行われたとみられる南北翼廊よくろう)は形式等しいため、まとめて説明する。北翼廊南翼廊とも切妻造本瓦葺一重二階建て。各翼廊中堂側面から南北方向延び途中で東方向に直角に折れ曲がっており、平面はL字形呈する桁行は折曲り8間、梁間1間である(折曲り8間とは、L字形外側柱間数えた数字である)。直角に曲がる角の部分には隅があり、この部分のみ3階建てになる。組物1階二手先2階平三斗で、軒は二軒繁垂木とする。1階頭貫飛貫腰貫固めるが、創建当初飛貫腰貫はなく、後から補強のために入れたのである1階頭貫から下は建具や壁を入れず開放とし、床も張らない天井組入天井とし、虹梁蟇股支える。2階階高低く、人が立って歩ける高さではないが、儀式等の際に人が立ち入ったことも想定されている。2階内部構架二重虹蟇股で、天井張らず垂木そのまま見えている。隅3階部分は方3間、宝形造本瓦葺きで、屋根頂部に瓦製の宝珠乗せる組物出組、軒は二軒繁垂木とする。東西南北面とも中央間を板扉、両脇間を連子窓とする。3階部分には下から昇ることはできず、人の入る空間はない。南北翼廊修理によって取り換えられた部材が多い。各翼廊16本ずつのがあるが、うち古いものは北翼廊1本、南翼廊5本のみで、他の明治修理時の取り換え材である。 尾廊(びろう)は中堂西側裳階接続し西側真っ直伸びる切妻造本瓦葺平屋建てで、桁行7間、梁間1間とする。組物平三斗内部構架二重虹蟇股とし、天井張らない桁行7間のうち、中堂裳階接する第1間は片引戸、以下は第2・3・6・7間を花頭窓、第4・5間を格子窓とする。尾廊は第5・6間の部分で池をまたいでおり、その部分西から3本目)は池中立っている。尾廊の窓や床は室町時代頃に設けられたものとみられるが、1889年明治22年)に作成され図面によると池の上掛かる部分は床ではなくとなっている。しかし、明治修理現在の形にされたようである。尾廊の大部分修理によって取り換えられているが、南側第3間の左右のみは古い。 鳳凰堂の建つ中島周囲の池については、1990年平成2年以降発掘調査により、拳大の玉石敷き詰めた平安時代洲浜出土し創建当初の状況明らかになっている。近代以降中島面積広げられているが、平安時代には島の面積狭く、ほとんど堂と同じ程度大きさで、両翼廊の端は池に突出していた。翼基壇当初はなかったとみられる。池の対岸東岸)には、鳳凰堂の阿弥陀如来像礼拝するための「小御所」という建物存在したことが福山敏男によって早くから明らかにされていたが、発掘調査により小御所遺構検出されている。 鳳凰堂には5万2049の瓦が使用されており、建立当時木製瓦を使った木瓦葺(こがわらぶきであったが、約半世紀後の康和3年1101年)の修理粘土瓦使った瓦葺(そうかわらぶき)に改修された。粘土瓦平等院荘園であった玉櫛荘(たまくしのしょう)」(現在の大阪府八尾市)の向山瓦窯跡で康和2年1100年初頭製造されたとされ、2012年平成24年9月始まった改修作業でも平安時代陶器瓦がまだ1560そのまま屋根残っていることが確認された。この時に確認され平安時代の瓦の多くは、正面から向かって左側の中堂屋根集める形で再利用されているため、この面だけが他に比べてずいぶんと白っぽく見える。

※この「鳳凰堂」の解説は、「平等院」の解説の一部です。
「鳳凰堂」を含む「平等院」の記事については、「平等院」の概要を参照ください。

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