建武の乱
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建武の乱(けんむのらん)は、建武政権期(広義の南北朝時代)、建武2年11月19日(1336年1月2日)から延元元年/建武3年10月10日(1336年11月13日)にかけて、後醍醐天皇の建武政権と足利尊氏ら足利氏との間で行われた一連の戦いの総称。延元の乱(えんげんのらん)とも。広義には、中先代の乱など建武政権期に発生した他の騒乱も含まれる。足利方が勝利して建武政権は崩壊し、室町幕府が成立した。一方、後醍醐天皇も和睦の直後に吉野に逃れて新たな朝廷を創立し(南朝)、幕府が擁立した北朝との間で南北朝の内乱が開始した。
- ^ 『大日本史料』6編2冊695–704頁.
- ^ 『大日本史料』6編2冊705–713頁.
- ^ 後南朝史編纂会 編『後南朝史論集:吉野皇子五百年忌記念』(新装版)原書房、1981年7月。ISBN 4-562-01145-9。
- ^ 森茂暁「『博多日記』の文芸性と九州の元弘の乱」『福岡大学人文論叢』37巻4号、2006年3月。/所収:森茂暁『中世日本の政治と文化』2006年。ISBN 978-4-7842-1324-5。
- ^ 佐藤 1997.
- ^ 楠木武 著「建武の乱」、阿部猛; 佐藤和彦 編『日本中世史事典』朝倉書店、2008年、404頁。ISBN 978-4-254-53015-5。
- ^ 博文館編輯局 1913, p. 922.
- ^ "延元の乱". 精選版 日本国語大辞典. コトバンクより2020年7月11日閲覧。
建武の乱
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建武3年(1336年)1月7日、文観は東寺一長者として、東寺の大法である後七日御修法を行った。近侍した十数人の僧のうち4人が文観の付法(伝授)を受けた僧であり(『東寺百合文書』(ろ)「建武三年真言院後七日御修法請僧等事」)、当時の文観の権勢をうかがうことができる。 ところが、当時は後醍醐天皇と足利尊氏の戦いである建武の乱が勃発していた時期であり、1月10日に尊氏が京都に攻め入ったため、後七日御修法は3日で中断された。文観は山門(延暦寺)に避難したが、尊氏は第一次京都合戦で建武政権軍に敗れ、2月に九州へと下った。 2月29日に「延元」への改元を挟み、延元元年/建武3年(1336年)3月21日には文観は大僧正に補任された(『瑜伽伝灯鈔』)。東寺一長者・醍醐寺座主に加え、真言宗の最高位を一身に兼任したことになる。 一方、足利尊氏は九州で多々良浜の戦いに勝利して再起し、5月には湊川の戦いで建武政権軍の要である武将楠木正成を敗死させ、5月下旬には京都攻略戦を開始した(第二次京都合戦)。こうした状況に対し、6月には尊氏と親しい仏僧である三宝院賢俊が文観に替わって第65代醍醐寺座主に補任された。 賢俊は、持明院統(後醍醐と対立する皇統)の光厳上皇の院宣を尊氏に伝えるなど、尊氏再起に大きな貢献をした僧である。そのため、『続伝統広録』「大僧正賢俊伝」など後世の伝記では、後醍醐と親しい文観と敵対し排除したかのように描かれている。しかし、仏教美術研究者の内田啓一は、賢俊はそもそも文観からも付法(伝授)を受けているから、弟子に対し順当に地位が継承されたという見方も可能であること、京都での攻防戦が始まっていたとはいえ、当時の京を統べる帝はまだ後醍醐天皇であったことを指摘し、賢俊が文観を駆逐したという通説的理解に疑問を示している。 同様のことは、同年9月に文観に替わって第121代東寺一長者になった成助にも言える。成助もまた文観から付法(伝授)を受けており、さらに古くから大覚寺統(後醍醐天皇の皇統)と親しい関係を持っていた。そのため、足利尊氏の台頭によって文観は影響力を弱めたとはいえ、依然として後醍醐と文観の息がかかった人物が真言宗の高僧に補任されたという見方も可能である。 10月1日には、後醍醐天皇の勅命で河内国(大阪府)の真言宗の寺院である天野山金剛寺が勅願寺に指定された。河内国の諸寺は後醍醐とは関係が深く、特に金剛寺は楠木正成との関わりもあった。一方、11月7日には尊氏が『建武式目』を発布して、京で幕府を成立させた。 なお、この建武の乱の時の混乱によって、建武政権初期に文観の指示によって観心寺(楠木氏の菩提寺)から宮中に移されていた伝・空海作の不動明王像の本体は焼失した。のち、後醍醐天皇は吉野にいた頃(1337年 - 1339年)に、写し取っていた画図を元にして模像を作らせた(賢耀『観心寺参詣諸堂巡礼記』(天授4年/永和4年(1378年)))。正平16年/康安元年(1361年)に南朝後村上天皇の指示によって、南朝から観心寺に移された(『河内長野市史』所収綸旨)。2006年時点でも観心寺に安置されている。内田の指摘によれば、経緯や造様からしてこの模像には文観が製作に関わっていると考えられ、しかも観心寺における配置も文観が主導した仏教思想である「三尊合行法」からの影響が見られるという。
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建武の乱
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詳細は「建武の乱」を参照 足利直義(尊氏の弟)の意向もあって尊氏はそのまま鎌倉に本拠を置き、独自に恩賞を与えはじめ、京都からの上洛の命令も拒んで、独自の武家政権創始の動きを見せはじめた。11月、尊氏は新田義貞を君側の奸であるとして天皇にその討伐を要請するが、天皇は逆に義貞に尊良親王をともなわせて尊氏討伐を命じた。さらに奥州からは北畠顕家も南下を始めており、尊氏は赦免を求めて隠居を宣言し寺にひきこもり断髪するが、直義・師直などの足利方が各地で劣勢となると、尊氏は彼らを救うため天皇に叛旗を翻すことを決意し「直義が死ねば自分が生きていても無益である」と宣言し出馬する。12月、尊氏は新田軍を箱根・竹ノ下の戦いで破り、京都へ進軍を始めた。この間、尊氏は持明院統の光厳上皇と連絡を取り、叛乱の正統性を得る工作をしている。建武3年(1336年)正月、尊氏は入京を果たし、後醍醐天皇は比叡山へ退いた。しかしほどなくして奥州から上洛した北畠顕家と楠木正成・新田義貞の攻勢に晒される。1月30日の戦いで敗れた尊氏は篠村八幡宮に撤退して京都奪還を図る。この時の尊氏が京都周辺に止まって反撃の機会を狙っていたことは、九州の大友近江次郎に出兵と上洛を命じた尊氏の花押入りの2月4日付軍勢催促状(「筑後大友文書」)から推測できる。だが、2月11日に摂津国豊島河原の戦いで新田軍に大敗を喫したために戦略は崩壊する。尊氏は摂津国兵庫から播磨国室津に退き、赤松円心の進言を容れて京都を放棄して九州に下った。 九州への西下途上、長門国赤間関(山口県下関市)で少弐頼尚に迎えられ、筑前国宗像大社の宗像氏範の支援を受ける。延元元年/建武3年(1336年)宗像大社参拝後の3月初旬、筑前国多々良浜の戦いにおいて天皇方の菊池武敏らを破り、大友貞順(近江次郎)ら天皇方勢力を圧倒して勢力を立て直した尊氏は、京に向かう途中の鞆で光厳上皇の院宣を獲得し、西国の武士を急速に傘下に集めて再び東上した。5月25日の湊川の戦いで新田義貞・楠木正成の軍を破り、6月には京都を再び制圧した(延元の乱)。 尊氏は洛中をほぼ制圧したが、このころ再び遁世願望が頭を擡げ8月17日に「この世は夢であるから遁世したい。信心を私にください。今生の果報は総て直義に賜り直義が安寧に過ごせることを願う」という趣旨の願文を清水寺に納めている。足利の勢力は、比叡山に逃れていた天皇の顔を立てる形での和議を申し入れた。和議に応じた後醍醐天皇は11月2日に光厳上皇の弟光明天皇に神器を譲った。その直後の11月7日、尊氏は、明法家(法学者)の是円(中原章賢)・真恵兄弟らへ諮問して『建武式目』十七条を定め、政権の基本方針を示し、新たな武家政権の成立を宣言したが、これは直義の意向が強く働いたものとされる。実質的には、このときをもって室町幕府の発足とする。尊氏は源頼朝と同じ権大納言に任じられ、自らを「鎌倉殿」と称した。一方、後醍醐天皇は12月に京を脱出して吉野(奈良県吉野郡吉野町)へ逃れ、光明に譲った三種の神器は偽物であり自らが帯同したものが本物であると称して独自の朝廷(南朝)を樹立した。
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建武の乱
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建武2年(1335年)、後醍醐天皇が足利尊氏の行動を疑問視して兵を出し、建武の乱が発生すると、上将軍として新田義貞と共に討伐軍を率いたが、敗退した。翌延元元年/建武3年(1336年)、一度は九州に落ちた尊氏が力を盛り返して上洛すると、後醍醐天皇は尊氏への降伏を決定する。しかし、10月9日、義貞の別働隊が編成されると、異母弟である皇太子恒良親王と共に義貞に奉戴されて北陸に逃れ、翌日越前国金ヶ崎城に入った。 延元2年/建武5年(1337年)1月、尊良親王が拠った金ヶ崎城に、高師泰と足利高経(斯波高経)を主将とする足利軍が攻めて来る(金ヶ崎の戦い)。尊良親王は義貞の子・新田義顕と共に懸命に防戦したが、敵軍の兵糧攻めにあって遂に力尽き、3月6日に自害、義顕や他の将兵100余人もまた戦死した。恒良親王は捕らえられて足利方に拘禁されたが、翌年に急死した。
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