建武の乱とは? わかりやすく解説

建武の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/12 12:49 UTC 版)

建武の乱(けんむのらん)は、建武政権期(広義の南北朝時代)、建武2年11月19日1336年1月2日)から延元元年/建武3年10月10日(1336年11月13日)にかけて、後醍醐天皇の建武政権と足利尊氏足利氏との間で行われた一連の戦いの総称。延元の乱(えんげんのらん)とも。広義には、中先代の乱など建武政権期に発生した他の騒乱も含まれる。足利方が勝利して建武政権は崩壊し、室町幕府が成立した。一方、後醍醐天皇も和睦の直後に吉野に逃れて新たな朝廷を創立し(南朝)、幕府が擁立した北朝との間で南北朝の内乱が開始した。


  1. ^ 『大日本史料』6編2冊695–704頁.
  2. ^ 『大日本史料』6編2冊705–713頁.
  3. ^ 後南朝史編纂会 編『後南朝史論集:吉野皇子五百年忌記念』(新装版)原書房、1981年7月。ISBN 4-562-01145-9 
  4. ^ 森茂暁「『博多日記』の文芸性と九州の元弘の乱」『福岡大学人文論叢』37巻4号、2006年3月。 /所収:森茂暁『中世日本の政治と文化』2006年。ISBN 978-4-7842-1324-5 
  5. ^ 佐藤 1997.
  6. ^ 楠木武 著「建武の乱」、阿部猛; 佐藤和彦 編『日本中世史事典』朝倉書店、2008年、404頁。ISBN 978-4-254-53015-5 
  7. ^ 博文館編輯局 1913, p. 922.
  8. ^ "延元の乱". 精選版 日本国語大辞典. コトバンクより2020年7月11日閲覧


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建武の乱

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文観」の記事における「建武の乱」の解説

建武3年1336年1月7日文観東寺一長者として、東寺大法である後七日御修法行った近侍した十数人の僧のうち4人が文観付法伝授)を受けた僧であり(『東寺百合文書』(ろ)「建武三年真言院後七日御修法請僧等事」)、当時文観権勢をうかがうことができる。 ところが、当時後醍醐天皇足利尊氏戦いである建武の乱が勃発していた時期であり、1月10日尊氏京都攻め入ったため、後七日御修法3日中断された。文観山門延暦寺)に避難したが、尊氏第一次京都合戦建武政権軍に敗れ2月九州へと下った2月29日に「延元」への改元挟み延元元年/建武3年1336年3月21日には文観大僧正補任された(『瑜伽伝灯鈔』)。東寺一長者醍醐寺座主加え真言宗最高位一身兼任したことになる。 一方足利尊氏九州多々良浜の戦い勝利して再起し5月には湊川の戦い建武政権軍の要である武将楠木正成敗死させ、5月下旬には京都攻略戦開始した第二次京都合戦)。こうした状況対し6月には尊氏親し仏僧である三宝院賢俊文観替わって65醍醐寺座主補任された。 賢俊は、持明院統後醍醐対立する皇統)の光厳上皇院宣尊氏伝えるなど、尊氏再起大きな貢献をした僧である。そのため、『続伝統広録』「大僧正賢俊伝」など後世伝記では、後醍醐親し文観敵対し排除したかのように描かれている。しかし、仏教美術研究者内田啓一は、賢俊そもそも文観からも付法伝授)を受けているから、弟子対し順当に地位継承されたという見方も可能であること、京都での攻防戦始まっていたとはいえ当時の京を統べる帝はまだ後醍醐天皇であったことを指摘し賢俊文観駆逐したという通説理解疑問示している。 同様のことは、同年9月文観替わって121東寺一長者になった成助にも言える。成助もまた文観から付法伝授)を受けており、さらに古くから大覚寺統後醍醐天皇皇統)と親しい関係を持っていた。そのため、足利尊氏台頭によって文観影響力弱めたとはいえ依然として後醍醐文観の息がかかった人物真言宗高僧補任されたという見方も可能である。 10月1日には、後醍醐天皇勅命河内国大阪府)の真言宗寺院である天野山金剛寺が勅願寺指定された。河内国の諸寺は後醍醐とは関係が深く、特に金剛寺楠木正成との関わりもあった。一方11月7日には尊氏が『建武式目』を発布して、京で幕府成立させた。 なお、この建武の乱の時の混乱によって、建武政権初期文観指示によって観心寺楠木氏菩提寺)から宮中移されていた伝・空海作の不動明王像本体焼失した。のち、後醍醐天皇吉野にいた頃(1337年 - 1339年)に、写し取っていた画図元にして像を作らせた(賢耀『観心寺参詣諸堂巡礼記』(天授4年/永和4年1378年)))。正平16年/康安元年1361年)に南朝後村上天皇指示によって、南朝から観心寺移された(『河内長野市史』所収綸旨)。2006年時点でも観心寺安置されている。内田指摘によれば経緯や造様からしてこの像には文観が製作に関わっていると考えられ、しかも観心寺における配置文観主導した仏教思想である「三尊行法」からの影響見られるという。

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建武の乱

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足利尊氏」の記事における「建武の乱」の解説

詳細は「建武の乱」を参照 足利直義尊氏の弟)の意向もあって尊氏そのまま鎌倉本拠を置き、独自に恩賞与えはじめ、京都からの上洛の命令拒んで、独自の武家政権創始動き見せはじめた11月尊氏新田義貞君側の奸であるとして天皇にその討伐要請するが、天皇逆に義貞に尊良親王をともなわせて尊氏討伐命じた。さらに奥州からは北畠顕家南下始めており、尊氏赦免求めて隠居宣言し寺にひきこもり断髪するが、直義師直などの足利方が各地劣勢となると尊氏は彼らを救うため天皇叛旗翻すことを決意し直義死ねば自分生きていても無益である」と宣言し出馬する12月尊氏新田軍を箱根・竹ノ下の戦い破り京都進軍始めたこの間尊氏持明院統光厳上皇連絡取り叛乱正統性を得る工作をしている。建武3年1336年正月尊氏入京果たし後醍醐天皇比叡山へ退いた。しかしほどなくして奥州から上洛した北畠顕家楠木正成新田義貞攻勢晒される1月30日戦いで敗れた尊氏篠村八幡宮撤退して京都奪還を図る。この時の尊氏京都周辺止まって反撃機会狙っていたことは、九州大友近江次郎出兵上洛命じた尊氏花押入り2月4日軍勢催促状(「筑後大友文書」)から推測できる。だが、2月11日摂津国豊島河原の戦い新田軍に大敗喫したために戦略崩壊する尊氏摂津国兵庫から播磨国室津退き赤松円心進言を容れて京都放棄して九州下った九州への西下途上長門国赤間関山口県下関市)で少弐頼尚迎えられ筑前国宗像大社宗像氏範の支援を受ける。延元元年/建武3年1336年宗像大社参拝後の3月初旬筑前国多々良浜の戦いにおいて天皇方菊池武敏らを破り大友貞順近江次郎)ら天皇方勢力圧倒して勢力立て直した尊氏は、京に向かう途中の鞆で光厳上皇院宣獲得し西国武士急速に傘下集めて再び東上した5月25日湊川の戦い新田義貞楠木正成の軍を破り6月には京都を再び制圧した延元の乱)。 尊氏洛中をほぼ制圧したが、このころ再び遁世願望が頭を擡げ8月17日に「この世は夢であるから遁世したい。信心を私にください今生果報総て直義賜り直義安寧過ごせることを願う」という趣旨願文清水寺納めている。足利勢力は、比叡山逃れていた天皇顔を立てる形での和議申し入れた和議応じた後醍醐天皇11月2日光厳上皇の弟光明天皇神器譲った。その直後11月7日尊氏は、明法家法学者)の是円中原章賢)・真恵兄弟らへ諮問して『建武式目十七条定め政権基本方針示し新たな武家政権成立宣言したが、これは直義意向強く働いたものとされる実質的には、このときをもって室町幕府発足とする。尊氏源頼朝と同じ権大納言任じられ、自らを「鎌倉殿」と称した一方後醍醐天皇12月に京を脱出して吉野奈良県吉野郡吉野町)へ逃れ光明譲った三種の神器偽物であり自らが帯同したもの本物であると称して独自の朝廷南朝)を樹立した

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建武の乱

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尊良親王」の記事における「建武の乱」の解説

建武2年1335年)、後醍醐天皇足利尊氏行動疑問視して兵を出し、建武の乱が発生すると、上将軍として新田義貞と共に討伐軍を率いたが、敗退した。翌延元元年/建武3年1336年)、一度九州落ちた尊氏が力を盛り返して上洛すると、後醍醐天皇尊氏への降伏決定する。しかし、10月9日、義貞の別働隊編成されると、異母弟である皇太子恒良親王と共に義貞に奉戴されて北陸逃れ翌日越前国金ヶ崎城入った延元2年/建武5年1337年1月尊良親王が拠った金ヶ崎城に、高師泰足利高経斯波高経)を主将とする足利軍攻めて来る(金ヶ崎の戦い)。尊良親王は義貞の子新田義顕と共に懸命に防戦したが、敵軍兵糧攻めにあって遂に尽き3月6日自害、義顕や他の将兵100余人もまた戦死した恒良親王捕らえられ足利方に拘禁されたが、翌年急死した

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