双極性障害説とその批判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 17:09 UTC 版)
1960年代、歴史研究者の佐藤進一は尊氏を双極性障害(1960年代当時の呼称は躁鬱病)ではないかと推測していた。 佐藤は、尊氏が中先代の乱の鎮圧に後醍醐天皇の許可なしに向かう途上で、既に後醍醐への反乱を計画していたと想定した。そして、その後それにも関わらず尊氏は素直に後醍醐の召還命令に応じようとしたり、いざ後醍醐との戦いである建武の乱が発生すると鎌倉の浄光明寺に引きこもってしまったことなどを挙げ、その行動の矛盾点を指摘した。佐藤は尊氏の行動を歯切れが悪いと批判し、その行動矛盾の理由について、天皇に反乱してはならないという日本古来の「番犬思想」とこの時代に舶来した儒学的易姓革命思想の板挟みになったことや、後醍醐との個人的親近感に基づく解釈などを取り上げている。 さらに、佐藤は、尊氏の父の貞氏の発狂歴や、先祖の家時の自殺伝説(いわゆる置文伝説)、そして曾孫の義教の性格などを挙げ、足利将軍家の血筋を「異常な血統」と評している。そして、尊氏の行動の複雑さは、双極性障害が遺伝的に受け継がれたものであると主張した。 その後2010年代に、歴史研究者の呉座勇一は佐藤の説を強く否定し、当時の史料に基づく限り、尊氏の行動は後醍醐への忠誠心と直義への兄弟愛で終始一貫しており、異常であるのはむしろ佐藤の不自然な想定の方であるとした。 呉座はまず第一に、精神医学の専門家ではない者が十分な証拠もなしに「双極性障害は遺伝的なものである」「患者の行動は常人には理解できないほど異常である」と決めつけることは、現実の患者への差別・偏見を招く恐れがあり、慎重になるべきであるとする。 第二に、佐藤が尊氏の行動に「番犬思想」として歯切れの悪さを感じるのは、佐藤ら戦後すぐの歴史研究者たちに政治的偏向による先入観がかかっていたからであると主張する。実際には、史料的に尊氏が後醍醐への反乱を意図していたと確証するものはない。むしろ、『梅松論』(14世紀半ば)は、中先代の乱参戦を「天下のため」「弟の直義を救うため」とし、建武の乱で引きこもりをやめて後醍醐に対峙したのも弟を救うためにやむを得ずとしており、呉座も『梅松論』説を支持する。呉座の推測によれば、尊氏は天下や後醍醐のために良かれと思って独断で行動していたが、厳密な許可を得ずとも後醍醐は自分の行動を追認してくれるだろうと楽観視しており、そこに尊氏と後醍醐の行き違いがあったのだという。つまり、佐藤の側に尊氏は当初から後醍醐への反乱を計画していたという先入観があるために、その行動が佐藤視点ではどっちつかずとして複雑に見えたのではないか、と主張した。
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