兄弟愛
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『スクランブルギャザー』にのみ登場。味方ユニットが破壊された時に使用し、破壊されたユニットのHP分だけ、味方ライブラリーを回復する。
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兄弟愛
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「シドニー・チャップリン (1885年生)」の記事における「兄弟愛」の解説
1930年代、シドニーはチャーリーに対して以下のような手紙を出している。 おまえの庇護者役をつとめねばならなかったのは、私にとっては不運なめぐりあわせ―いや幸運なめぐりあわせと言うべきだろう。それは兄弟愛というよりもむしろ、自分の中にある父性愛が原因だった — シドニー・チャップリン、デイヴィッド・ロビンソン、宮本高晴、高田恵子(訳)『チャップリン(上)』45ページ また、叔母のケイト・モウプレイも次のように回想する。 チャーリー・チャップリンについて書く人たちが、兄のシドニーにひと言も触れないのは、私には奇妙でしようがありません。二人はこれまでかたときも離れることなく生きてきました。物腰の落ち着いた、聡明で沈着なシドは、チャーリーの父ともなり母ともなってきました。チャーリーはいつも兄を尊敬し、シドは弟のためならどんな苦労もいとわなかったのです。 — ケイト・モウプレイ、デイヴィッド・ロビンソン、宮本高晴、高田恵子(訳)『チャップリン(上)』45ページ 映画史家のデイヴィッド・ロビンソン(英語版)は、シドニーとチャーリーの強固な兄弟愛を辛く貧しい子ども時代を分かちあったことに求めている。この兄弟愛はチャーリーが世界の人気者となっても続くわけであるが、セレブになってもシドニーの助言には基本的に従うこととなる。『公債』の製作も、チャーリーが第一次世界大戦に反対の気があって「愛国心がない」と批判されることを恐れたシドニーが、弁護士と組んでチャーリーを説得した末に製作された映画である。第一次世界大戦との関連で言えば、当のシドニー自身が「年齢を偽っており本当は徴兵適格者である」という匿名の手紙につられた徴兵委員会に呼び出され、徴兵適格年齢を過ぎていることを証明しなければならなかった。時には、とかくワンマンで完璧主義者のチャーリーがひどいスランプに陥り、シドニーの救いを求めることもあった。1916年製作の『午前一時』の評判が芳しくなかったことを聞いたチャーリーは意気消沈し、一種のうつ状態になって次のような電報をシドニーに対して打った。 最近二作の出来は、ぼくをとてもまいらせた。兄さんにここにいて助けてほしい。ぜんぶ捨てて、なんとか八月十二日の土曜日までにロス・アンジェルスにくる手筈をととのえて。次の映画の監督を手伝って。すぐに返信を。チャーリー — もっとも、チャーリーがシドニーの助言にすべて忠実だったわけではない。ウォルト・ディズニーのアニメが台頭してきたころ、シドニーはチャーリーに対して「これからはアニメの時代だから、実写映画をやめて、放浪者チャーリー(英語版)をアニメのなかで演じてはどうか」と提案し、ストーリーまで考案したもののチャーリーに無視された。 チャーリーの片腕としてのシドニーの隠れた「功績」がある。チャーリーはエッサネイ社を経て1916年からはミューチュアル社(英語版)と契約する。撮影に際してチャーリーは膨大なフィルムを消費し、本編に使用する分以外のショットは倉庫に保管していたが、シドニーはこれら未使用ショットを自分の手に移して保管し続けた。未使用ショットはその後流転を重ね、第二次世界大戦後にフィルムコレクターのレイモンド・ロウハウアーが所有するところとなり、のちに英国映画協会のライブラリーに保管されてチャーリー作品の研究、とりわけチャーリーの映画作りの技法に関する謎の解明に一役買うこととなった。
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