前史:元弘・建武の乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 09:33 UTC 版)
「南北朝時代 (日本)」の記事における「前史:元弘・建武の乱」の解説
詳細は「両統迭立」、「元弘の乱」、「建武の新政」、および「建武の乱」を参照 鎌倉時代半ばの寛元4年(1246年)、後嵯峨天皇の譲位後に皇統は皇位継承を巡って大覚寺統と持明院統に分裂した。そこで鎌倉幕府の仲介によって、大覚寺統と持明院統が交互に皇位につく事(両統迭立)が取り決められていた。 元弘元年(1331年)、大覚寺統の後醍醐天皇は全国の武士に討幕の綸旨を発し、元弘の乱を開始した。初めは実子の護良親王や河内の武士楠木正成など少数の者が後醍醐のため戦うのみだったが、やがて足利高氏(のちの尊氏)や新田義貞らも呼応したことで、鎌倉幕府とその実質的支配者北条得宗家は滅んだ。 元弘3年/正慶2年5月22日(1333年7月4日)、建武の新政と呼ばれる後醍醐天皇による親政がはじまった。はじめ後醍醐は足利高氏を寵愛し、自らの諱「尊治」から一字を取って「尊氏」の名を与えた(偏諱)。後醍醐が実施した法制改革や人材政策は基本路線としては優れた面もあったものの、戦争後の混乱に法体系の整備や効率的な実施が追いつかず、政局の不安定が続き、また恩賞給付にも失敗があったため、その施策は賛否両論だった。建武2年(1335年)7月、北条時行ら北条氏の残党が中先代の乱を引き起こすと、その討伐を終えた尊氏は、恩賞を独自の裁量で配り始めた。すると、建武政権の恩賞政策に不満を抱えた武士たちの多くが尊氏に従った。 尊氏の恩賞給付行為を、新政からの離反と見なした後醍醐天皇は、建武2年11月19日(1336年1月2日)、新田義貞や北畠顕家に尊氏討伐を命じ、建武の乱が開始。新田軍は箱根・竹ノ下の戦いで敗北。さらに、新田軍は京都で迎撃し(第一次京都合戦)、結城親光(三木一草の一人)が戦死するが、やがて陸奥国から下った北畠軍の活躍もあり尊氏軍を駆逐した。尊氏らは九州へ下り、多々良浜の戦いに勝利して勢力を立て直したのちの翌年に、持明院統の光厳上皇の院宣を掲げて東征する。迎え撃つ建武政権側は新田義貞・楠木正成が湊川の戦いで敗れ(正成は戦死)、比叡山に篭った。さらに第二次京都合戦で数ヶ月に渡る戦いの末、建武政権側は京都と名和長年・千種忠顕ら重臣(三木一草)を喪失し、続く近江の戦いでも敗北。延元元年/建武3年10月10日(1336年11月13日)、後醍醐は尊氏に投降し、建武政権は崩壊した。 尊氏は後醍醐天皇との和解を図り、三種の神器を接収し持明院統の光明天皇を京都に擁立(北朝)した。その上で、是円(中原章賢)・真恵兄弟らに諮問して『建武式目』を制定し、施政方針を定め正式に幕府を開いた。だが、後醍醐天皇は京都を脱出して奈良の吉野へ逃れ、「北朝に渡した神器は贋物であり光明天皇の皇位は正統ではない」と主張して吉野に南朝(吉野朝廷)を開き、北陸や九州など各地へ自らの皇子を奉じさせて派遣した。
※この「前史:元弘・建武の乱」の解説は、「南北朝時代 (日本)」の解説の一部です。
「前史:元弘・建武の乱」を含む「南北朝時代 (日本)」の記事については、「南北朝時代 (日本)」の概要を参照ください。
- 前史:元弘・建武の乱のページへのリンク