前史:日本軍侵攻以前の鉄道事情とは? わかりやすく解説

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前史:日本軍侵攻以前の鉄道事情

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/21 03:09 UTC 版)

スマトラ横断鉄道」の記事における「前史:日本軍侵攻以前の鉄道事情」の解説

現在のインドネシア3世紀以上にわたり支配したオランダ1940年5月10日ナチスドイツ侵略され4日後に降伏オランダ王室イギリス亡命する蘭印政庁本国降伏したことをひた隠しにするが、現地オランダ人の間に広がる動揺当惑をは隠すことはできなかった。現地人の間では、これを350年にわたるオランダ支配断ち切る絶好機会捉え独立へ動き加速するそうした空気のなかで、オランダ駆逐するために日本介入待望する機運もあった。オランダナチス降伏してから2年後1942年3月9日真珠湾攻撃からわずか3か月後、オランダの総督府が置かれバタビア現在のジャカルタ)が今村均将軍率い日本軍第16軍の手落ち蘭印提督チャルダ・ファン・スタルケンボルフ・スタックハウエル (Tjarda Van Stakenborg Stachower)、そして蘭印軍司令官ハイン・テル・ポールテン中将西ジャワ州サバン県のカリジャティ (Kalijati) で降伏文書署名した350年にわたるオランダ支配終わった場所として、カリジャティの名はインドネシア人記憶中に今でもはっきりと刻まれており、降伏の儀式が行われた建物博物館として保存されている。 日本軍占領される前のスマトラにはオランダ植民政府鉄道局 (Nederlandsche-Indische Staatsspoorwegen) の手いくつかの鉄道路線建設されていた。現在の西スマトラ州では港湾都市パダンから炭坑のあるサワルントまで158キロメートル (km) の路線の工事1889年始まり1894年1月全線開通した(後にムアロまで延伸全長177.5 km)。この鉄道1869年にサワルント付近、オンビリン川上流で発見され石炭掘り出しインド洋面したパダンの港(当時の名前はエマヘイブン)に運ぶために建設された。サワルントまではパダンの港から直線57 kmだが、急勾配乗り切るためその約3倍の距離の路線アナイ川の渓谷を縫うように作られた。7つをかけ、70 mと35 mのトンネルを掘る大工事だった。773 mの標高差、最大傾斜70パーミル斜面登るため、リッゲンバッハ式ラックレール35 kmにわたり施設され、蒸気機関車特注出力の高いものが投入された。 なお、戦争中日本軍司令本部置いた標高1,000 m、高原都市のブキティンギィ、そしてその先パヤクンブへの路線1896年9月開通した1924年までにその他の路線建設され新しいテルック・バユールの港まで路線延びパダン周辺には日本軍の侵攻以前総延長300 kmい鉄道が営業していた。これらの路線のうち、2019年7月時点稼働中なのはパダンとパリアマンを結ぶ45 kmのみ(セメントを運ぶ貨物線、そして新設され空港延長線をのぞく)。ちなみにこれらの路線軌間はすべて1,067 mmだ。

※この「前史:日本軍侵攻以前の鉄道事情」の解説は、「スマトラ横断鉄道」の解説の一部です。
「前史:日本軍侵攻以前の鉄道事情」を含む「スマトラ横断鉄道」の記事については、「スマトラ横断鉄道」の概要を参照ください。

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