前史:日本軍侵攻以前の鉄道事情
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「スマトラ横断鉄道」の記事における「前史:日本軍侵攻以前の鉄道事情」の解説
現在のインドネシアを3世紀以上にわたり支配したオランダは1940年5月10日、ナチスドイツに侵略され、4日後に降伏、オランダ王室はイギリスに亡命する。蘭印政庁は本国が降伏したことをひた隠しにするが、現地のオランダ人の間に広がる動揺、当惑をは隠すことはできなかった。現地人の間では、これを350年にわたるオランダ支配を断ち切る絶好の機会と捉え、独立への動きが加速する。そうした空気のなかで、オランダを駆逐するために日本の介入を待望する機運もあった。オランダがナチスに降伏してから2年後の1942年3月9日、真珠湾攻撃からわずか3か月後、オランダの総督府が置かれたバタビア(現在のジャカルタ)が今村均将軍の率いる日本軍(第16軍)の手に落ち、蘭印提督チャルダ・ファン・スタルケンボルフ・スタックハウエル (Tjarda Van Stakenborg Stachower)、そして蘭印軍司令官のハイン・テル・ポールテン中将が西ジャワ州サバン県のカリジャティ (Kalijati) で降伏文書に署名した。350年にわたるオランダの支配が終わった場所として、カリジャティの名はインドネシア人の記憶の中に、今でもはっきりと刻まれており、降伏の儀式が行われた建物は博物館として保存されている。 日本軍に占領される前のスマトラにはオランダ植民政府の鉄道局 (Nederlandsche-Indische Staatsspoorwegen) の手でいくつかの鉄道路線が建設されていた。現在の西スマトラ州では港湾都市パダンから炭坑のあるサワルントまで158キロメートル (km) の路線の工事が1889年に始まり、1894年1月に全線が開通した(後にムアロまで延伸、全長177.5 km)。この鉄道は1869年にサワルント付近、オンビリン川上流で発見された石炭を掘り出し、インド洋に面したパダンの港(当時の名前はエマヘイブン)に運ぶために建設された。サワルントまではパダンの港から直線で57 kmだが、急勾配を乗り切るためその約3倍の距離の路線がアナイ川の渓谷を縫うように作られた。7つの橋をかけ、70 mと35 mのトンネルを掘る大工事だった。773 mの標高差、最大傾斜70パーミルの斜面を登るため、リッゲンバッハ式ラックレールが35 kmにわたり施設され、蒸気機関車も特注で出力の高いものが投入された。 なお、戦争中に日本軍が司令本部を置いた標高1,000 m、高原都市のブキティンギィ、そしてその先のパヤクンブへの路線は1896年9月に開通した。1924年までにその他の路線も建設され、新しいテルック・バユールの港まで路線が延び、パダン周辺には日本軍の侵攻以前、総延長300 km近い鉄道が営業していた。これらの路線のうち、2019年7月の時点で稼働中なのはパダンとパリアマンを結ぶ45 kmのみ(セメントを運ぶ貨物線、そして新設された空港延長線をのぞく)。ちなみにこれらの路線の軌間はすべて1,067 mmだ。
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