壬生晴富とは? わかりやすく解説

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壬生晴富

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/04 14:44 UTC 版)

壬生 晴富(みぶ はれとみ、応永29年〈1422年〉 - 明応6年〈1497年〉)は、室町時代後期の官人左大史壬生晨照の子。官位正四位上治部卿。法名は道秀多宝院と号した。

経歴

応永33年(1426年元服し、従五位下叙爵する。その後、世職である民部少輔主殿頭造東大寺次官を歴任。康正元年(1455年従四位下、寛正6年(1460年正四位下と昇進し、応仁2年(1468年左大史に任ぜられ、父・壬生晨照のあとを受けて官務小槻氏長者となった。

応仁の乱では西軍側につく一方で、文明4年(1472年)東軍側に与していた嗣子・壬生雅久に官務職を譲り、官務に精通していた晴富は雅久を助けて家職を守った[1]。文明14年(1482年)正四位上に至り、延徳2年(1490年)小槻氏で初めて八省卿となった大宮長興に次いで、壬生家として初めて治部卿に任ぜられた。同年出家し、法名道秀

父・晨照に続いて、同族の大宮長興とは官務・氏長者職を争ったほか、氏長者領である近江国雄琴・苗鹿両荘に関する相論を行い家領の確保に努めるなど、大宮家に対抗して壬生家の地位の維持に腐心した。また、応仁の乱で官文庫を喪失した大宮長興に対して、晴富は家訓を作成して文書の保存管理を図るとともに[2]室町幕府の援助を取り付けたほか、延徳2年(1490年)には宗祇から1000疋の寄附を受けるなどして[3]官文庫の維持に成功し相伝の文書を守っている。明応6年(1497年卒去享年76。

著作として『続神皇正統記』『建武三年以来記』があったほか、日記『晴富宿禰記』が伝わっている[1]

官歴

地下家伝』による。

逸話

「今度撰歌」(応仁の乱で中絶して幻に終わった22番目の勅撰和歌集撰集の企画(いわゆる覚正動撰)のこと)の資料として文正元年(1466年)に後花園天皇が詠んだ百首和歌は、乱前、和歌所とされた撰者・飛鳥井雅親の邸第に収められてあった。乱の勃発直後に飛鳥井邸が兵火に遭った際、一部が持ち出されて市中に出回り、後に偶然、晴富が後花園院自筆の百首和歌を入手したという(『晴富宿禰記』)[5]

系譜

地下家伝』による。

脚注

  1. ^ a b 『朝日日本歴史人物事典』
  2. ^ 『当局追誡』
  3. ^ 『大日本史料』第八編之三十九
  4. ^ 安田[1990: 597]
  5. ^ 末柄豊「文書と日記の間 -『仰書』所収後土御門天皇女房奉書と『晴富宿禰記』-[1]
  6. ^ 『本朝皇胤紹運録』

参考文献




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