二条良実と押小路烏丸殿とは? わかりやすく解説

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二条良実と押小路烏丸殿

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 09:56 UTC 版)

押小路烏丸殿」の記事における「二条良実と押小路烏丸殿」の解説

さて、二条家の祖である二条良実がここに居住したとする『拾芥抄』の説があり、また「二条京極第」に邸宅存在したことから「二条」の家名成立したとする説もある。更に二条家に伝わる『二条押小路家門亭泉記』には二条良実建長年間相博したと記されている。だが、二条良実邸は後に内裏として用いられる二条富小路殿であったことが、『平戸記寛元2年4月20日条に記された良実の冷泉殿から二条富小路殿への移転記事(「今夜殿下二条良実御渡二条富小路御所」 )から確認可能であり、また良実の二条道良薨去したのが、二条富小路殿であったことも『経光卿記正元元年11月8日条の死去記事(「今暁二条道良)令薨去云々、坐二条富小路亭、已為陣中、旁無便宜」 )に明記されており、二条良実邸が押小路烏丸二条京極にはなかったと考えられている(なお、当時二条富小路殿里内裏である冷泉富小路殿とは二条大路挟んで斜め向かいにあり、里内裏出入口(陣)の一部みなされていた)。また、建長年間貞応正嘉の間の時期)に押小路烏丸殿施設存在したかも不明であり、少なくて二条良実押小路烏丸殿の主であった可能性は低い。更に室町時代後期壬生晴富二条持通より、相博行ったのは永仁年間であったとする話を聞いており(『晴富宿禰記』文明10年3月9日条)、後伏見天皇二条富小路殿にて即位した永仁6年1298年以前13世紀後半二条富小路殿押小路烏丸殿相博が行われている。

※この「二条良実と押小路烏丸殿」の解説は、「押小路烏丸殿」の解説の一部です。
「二条良実と押小路烏丸殿」を含む「押小路烏丸殿」の記事については、「押小路烏丸殿」の概要を参照ください。

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