二条良実と押小路烏丸殿
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「押小路烏丸殿」の記事における「二条良実と押小路烏丸殿」の解説
さて、二条家の祖である二条良実がここに居住したとする『拾芥抄』の説があり、また「二条京極第」に邸宅が存在したことから「二条」の家名が成立したとする説もある。更に二条家に伝わる『二条押小路家門亭泉記』には二条良実が建長年間に相博したと記されている。だが、二条良実邸は後に内裏として用いられる二条富小路殿であったことが、『平戸記』寛元2年4月20日条に記された良実の冷泉殿から二条富小路殿への移転記事(「今夜殿下(二条良実)御渡二条富小路御所」 )から確認可能であり、また良実の子二条道良が薨去したのが、二条富小路殿であったことも『経光卿記』正元元年11月8日条の死去記事(「今暁(二条道良)令薨去給云々、坐二条富小路亭、已為陣中、旁無便宜」 )に明記されており、二条良実邸が押小路烏丸や二条京極にはなかったと考えられている(なお、当時二条富小路殿は里内裏である冷泉富小路殿とは二条大路を挟んで斜め向かいにあり、里内裏の出入口(陣)の一部とみなされていた)。また、建長年間(貞応と正嘉の間の時期)に押小路烏丸殿の施設が存在したかも不明であり、少なくても二条良実が押小路烏丸殿の主であった可能性は低い。更に室町時代後期に壬生晴富が二条持通より、相博を行ったのは永仁年間であったとする話を聞いており(『晴富宿禰記』文明10年3月9日条)、後伏見天皇が二条富小路殿にて即位した。永仁6年(1298年)以前の13世紀後半に二条富小路殿と押小路烏丸殿の相博が行われている。
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