二条親政派の攻勢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/05 04:40 UTC 版)
しかし、ここにもう一つ別の政治勢力が存在していた。美福門院を中心に東宮・守仁の擁立を図る勢力(二条親政派)である。美福門院は、鳥羽法皇から荘園の大半を相続して最大の荘園領主となっており、その意向を無視することはできなかった。美福門院はかねてからの念願であった、自らの養子・守仁の即位を信西に要求した。もともと後白河の即位は守仁即位までの中継ぎとして実現したものであり、信西も美福門院の要求を拒むことはできず、保元3年(1158年)8月4日、信西と美福門院の協議により後白河天皇は守仁親王に譲位した(二条天皇)。ここに、後白河院政派と二条親政派の対立が始まることになる。二条親政派は藤原経宗(二条の伯父)・藤原惟方(二条の乳兄弟、記録所の弁官の一人)が中心となり、美福門院の支援を背景に後白河の政治活動を抑圧する。これに対して後白河は近衛天皇急死により突然皇位を継いだこともあり、頼れるのは信西のみであった。しかも信西自身も元は鳥羽法皇の側近で美福門院とも強い関係を有していることから、状況は不利であった。後白河にとっては、自らの院政を支える近臣の育成が急務となった。
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