二条派の振興
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後醍醐天皇は和歌にも造詣が深かった。『新後撰和歌集』から『新後拾遺和歌集』までの7つの勅撰和歌集に、多数の歌が入撰している。これらの勅撰集の中でも、第16となる『続後拾遺和歌集』(嘉暦元年(1326年)6月9日返納)は、後醍醐天皇が二条為定を撰者として勅撰したものである。実子で南朝征夷大将軍の宗良親王が撰者であった南朝の准勅撰集『新葉和歌集』にも当然ながら入撰しており、また宗良親王の家集『李花集』には、内面の心境を吐露した和歌が収録されている。南朝だけではなく、室町幕府初代将軍足利尊氏の執奏による北朝の勅撰集『新千載和歌集』でも24首が入撰しており、これは二条為世・二条為定・伏見院・後宇多院・二条為氏らに次いで6番目に多い。自身も優れた武家歌人であった尊氏は、後醍醐天皇を弔う願文の中で、「素盞嗚尊之詠、伝我朝風俗之往策」と、後醍醐の和歌の才能を歌神である素盞嗚尊(すさのおのみこと)になぞらえ、その詠み様は古い日本の歌風を再現するかのような古雅なものであったと評している。 後醍醐天皇は、当時の上流階級にとっての正統文芸であった和歌を庇護した有力なパトロンと見なされており、『増鏡』第13「秋のみ山」でも「当代(後醍醐)もまた敷島の道もてなさせ給」と賞賛されている。なお、鎌倉時代中期の阿仏尼『十六夜日記』に「やまとの歌の道は(中略)世を治め、物を和らぐるなかだち」とあるように、この当時の和歌はただの文芸ではなく、己の意志を表現して統治を円滑するための強力な政治道具とも考えられていた。 歌学上の業績としては、当時持明院統派閥の京極派に押されつつあった二条派を、大覚寺統の天皇として復興した。前述の『続後拾遺和歌集』の撰者に二条派の為定を採用したことが一例である。藤原北家御子左流は「歌聖」藤原定家などを輩出した歌学の家系であるが、当時の歌壇は、御子左流嫡流で政治的には大覚寺統側だった二条家の二条派と、その庶流で政治的には持明院統側だった京極派に二分していた(ここに鎌倉幕府と親しかった冷泉派を加えることもある)。歌風としては、二条派は伝統性と平明性を尊び、対する京極派は清新性を尊んだという違いがある。国文学研究者の井上宗雄および日本史研究者の森茂暁によれば、儒学を重んじる後醍醐天皇は、二条派の中でも、二条家当主ではあるが古儀に疎い二条為世よりも、その次男で儒学的色彩の濃い二条為藤の歌を好んだという。その論拠として、『花園天皇宸記』元亨4年(1324年)7月26日条裏書には、為藤の評伝記事について「主上(後醍醐)、儒教の義理をもつて、推して歌道の本意を知る」とあることが挙げられる。森の主張によれば、後醍醐天皇は歌学の教養を二条派から摂取しただけではなく、その逆方向に後醍醐天皇から為藤やその甥の為定の歌風に対する影響も大きく、二条派に儒風を導入させたという。 また、後醍醐天皇は婚姻上でも御子左流二条家を優遇し、為世の娘(為定の叔母)であり、「歌聖」藤原定家からは曾孫にあたる二条為子を側室として迎えた。為子との間に、尊良親王および後に二条派最大の歌人の一人として南朝歌壇の中心となった宗良親王の男子二人をもうけている。『増鏡』では、後醍醐と為子は仲睦まじい夫婦だったと描かれている。
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