二条派の振興とは? わかりやすく解説

二条派の振興

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 00:58 UTC 版)

後醍醐天皇」の記事における「二条派の振興」の解説

後醍醐天皇和歌にも造詣深かった。『新後撰和歌集』から『新後拾遺和歌集』までの7つ勅撰和歌集に、多数の歌が入撰している。これらの勅撰集中でも、第16となる『続後拾遺和歌集』(嘉暦元年1326年6月9日返納)は、後醍醐天皇二条為定撰者として勅撰したものである。実子南朝征夷大将軍宗良親王撰者であった南朝の准勅撰集新葉和歌集』にも当然ながら入撰しており、また宗良親王家集李花集』には、内面心境吐露し和歌収録されている。南朝だけではなく室町幕府初代将軍足利尊氏執奏による北朝勅撰集新千載和歌集』でも24首が入撰しており、これは二条為世二条為定伏見院後宇多院二条為氏らに次いで6番目に多い。自身優れた武家歌人であった尊氏は、後醍醐天皇弔う願文の中で、「素盞嗚尊之詠、伝我朝風俗之往策」と、後醍醐和歌才能歌神である素盞嗚尊すさのおのみこと)になぞらえ、その詠み様は古い日本歌風再現するのような古雅なものであった評している。 後醍醐天皇は、当時の上階級にとっての正統文芸であった和歌庇護し有力なパトロンと見なされており、『増鏡』第13秋のみ山」でも「当代後醍醐)もまた敷島の道もてなさせ給」と賞賛されている。なお、鎌倉時代中期阿仏尼十六夜日記』に「やまとの歌の道は(中略)世を治め、物を和らぐなかだち」とあるように、この当時和歌はただの文芸ではなく、己の意志表現して統治円滑するための強力な政治道具とも考えられていた。 歌学上の業績としては、当時持明院統派閥京極派押されつつあった二条派を、大覚寺統天皇として復興した前述の『続後拾遺和歌集』の撰者二条派の為定を採用したことが一例である。藤原北家御子左流は「歌聖藤原定家などを輩出した歌学家系であるが、当時歌壇は、御子左流嫡流政治的に大覚寺統側だった二条家二条派と、その庶流政治的に持明院統側だった京極派二分していた(ここに鎌倉幕府親しかった冷泉派加えることもある)。歌風としては、二条派伝統性と平明性を尊び対す京極派清新性を尊んだという違いがある。国文学研究者井上宗雄および日本史研究者森茂暁によれば儒学重んじる後醍醐天皇は、二条派中でも二条家当主ではあるが古儀疎い二条為世よりも、その次男儒学色彩の濃い二条為藤の歌を好んだという。その論拠として、『花園天皇宸記元亨4年1324年7月26日裏書には、為評伝記事について「主上後醍醐)、儒教義理をもつて、推して歌道本意を知る」とあることが挙げられる主張によれば後醍醐天皇歌学教養二条派から摂取しただけではなく、その逆方向後醍醐天皇から為やその甥の為定の歌風対す影響大きく二条派に儒風を導入させたという。 また、後醍醐天皇婚姻上で御子左流二条家優遇し、為世の娘(為定の叔母)であり、「歌聖藤原定家からは曾孫にあたる二条為子側室として迎えた。為子との間に、尊良親王および後に二条派最大歌人一人として南朝歌壇中心となった宗良親王男子二人もうけている。『増鏡』では、後醍醐と為子は仲睦まじい夫婦だったと描かれている。

※この「二条派の振興」の解説は、「後醍醐天皇」の解説の一部です。
「二条派の振興」を含む「後醍醐天皇」の記事については、「後醍醐天皇」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「二条派の振興」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「二条派の振興」の関連用語

二条派の振興のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



二条派の振興のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの後醍醐天皇 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS