秋のみ山
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/05 09:31 UTC 版)
中宮となった元応元年(1319年)の8月13日、禧子と後醍醐天皇は、西園寺家が領有する広大な邸宅である北山邸(後の京都市北区金閣寺)に行幸啓した。 歴史物語の17巻本『増鏡』(14世紀半ば)の巻第13「秋のみ山」によれば、翌々日の15日夜には、中秋の名月を賞する盛大な宴が催された。このとき、長姉の永福門院(西園寺鏱子)は妹の禧子が中宮に冊立されたことを喜び、禧子に宛てて、和歌を贈呈したという。 こよひしも 雲井の月も 光そふ 秋のみ山を 思ひこそやれ(大意:中秋の名月である今宵は、雲井(雲のたなびく大空)にある満月も、雲井(宮中、ここでは天皇・皇后の行幸啓)の満月のように晴れ晴れしい中宮陛下も、いっそう光輝いていらっしゃいます。秋の深山(北山邸)にいらっしゃる秋の宮(中宮陛下)のことを、とてもめでたいと思いやっております) —永福門院、『増鏡』「秋のみ山」 すると、夫の後醍醐は「まろ聞えん」(「わたくしが(代わりに)申し上げましょう」)と言って、禧子の代わりに返歌を詠んだ。 昔見し 秋のみ山の 月影を 思ひいでてや 思ひやるらん(大意:永福門院様もまたその昔、(伏見天皇の)秋の宮(中宮)でいらっしゃいましたね。中宮時代に秋の深山(北山邸)から御覧になった美しい月の光と、月の光のように美しい禧子のまだ幼い頃を思い出して、そのように思いやっておいでになるのでしょう) —後醍醐天皇、『増鏡』「秋のみ山」 このように、義姉への返答をしつつ、その中身は禧子の月影(月の光)のような美しさを称える歌で、機会さえあれば妻の自慢をするという後醍醐ののろけ話だった。この話は『増鏡』のハイライトの一つであり、「秋のみ山」という巻名自体が、上記の永福門院と後醍醐の和歌に登場する禧子を指す語から取られている。 これらの和歌と経緯は、勅撰和歌集である『続千載和歌集』の巻4「秋下」にも、第458歌と第459歌として見えている。
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