尊治親王妃に
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 15:14 UTC 版)
1300年代ごろ、為子は尊治親王(のちの後醍醐天皇)と交際を始める。正確な馴れ初めは不明であるが、尊治(後醍醐)も無類の和歌好きで同時代を代表する大歌人であるから、おそらく二人は和歌の趣味を介して出会ったと考えられている。二人が付き合い始めた確実な時期も不明だが、日本史研究者の平田俊春は、長子である尊良親王を徳治年間(1306年 - 1308年)の生まれと推測しており、森茂暁も同意する。 『増鏡』「秋のみ山」には、「坊の御時、限りなく思(おぼ)されたり」云々とあり、尊治から為子への愛情は限りないほど深かった。さらに、地位としても、為子は尊治の正室格の妃と見なされたようである(なお、尊治が後の中宮西園寺禧子と出会うのは為子の没後)。たとえば、『花園天皇宸記』では、二条為定(為世の孫)の一族は後醍醐天皇の「外家」(皇后あるいは皇妃の生家)とある。また敗れてはしまったものの、後、尊良は次期皇太子位を巡る政争に父帝の推挙で出馬したこともある(「書状切」鶴見大学図書館所蔵)。為子と尊治の二人のどちらにとっても長子である尊良の乳父には、尊治が属する皇統である大覚寺統譜代の重臣「後の三房」のひとり吉田定房が当てられ、手厚く養育された(『増鏡』「春の別れ」)。 嘉元4年(1306年)、後宇多上皇による三十首歌に詠進(『玉葉和歌集』秋歌上・458)。徳治2年(1307年)3月、後宇多による仙洞歌合に参加(『新千載和歌集』春歌上・75)。 長男の尊良の誕生と前後して、徳治2年7月24日(1307年8月22日)に為子の主君である遊義門院が急病で崩御した。その後は、夫の尊治の兄である後二条天皇に典侍(後宮の運営を行う官僚で事実上の長官)として仕え始めた。『玉葉和歌集』(正和元年(1312年)奏覧)では「後二条院権大納言典侍」と称されている。しかし、後二条もまた、遊義門院崩御の約1年後、徳治3年8月25日(1308年9月10日)に崩御してしまった。後二条の急死によって、尊治が皇太子となった。 長男の尊良の次に、為子は女三宮(尊治親王にとっての第三女)をもうけた(『増鏡』「秋のみ山」)。森や『国史大辞典』(次田香澄担当)は、この女三宮を瓊子内親王(けいしないしんのう)のことであるとしている。 さらに、応長元年(1311年)に尊澄法親王、のちの宗良親王を出産した(『増鏡』「秋のみ山」・『東寺天台座主記』)。 しかし為子は、尊澄(宗良)を産んで間もない頃で、夫の尊治が文保2年(1318年)に天皇に即位する相当前の、ある時期に没した。『為理集』によって為子の没日が8月12日なのは確かめられるが、その正確な没年については揺れがある。森は、1988年初版/2007年改版の著書では正和3年(1314年)としていたが、その後、1991年初版/2013年改版の著書では応長元年(1311年)もしくは正和元年(1312年)としている。『国史大辞典』(次田香澄担当)は、「応長元年(1311年)ごろ」としている。頓阿『草庵和歌集』1322に「民部卿于時宰相中将」とあり、二条為藤(為子の兄弟)が宰相中将だったのが延慶2年(1309年)3月から正和2年(1313年)8月7日までである(『公卿補任』)ことから、没年を1311年か1312年に絞ることが可能である。いずれにしても、尊治と出会ってから5年ほど、尊澄(宗良)を出産してすぐに亡くなったことになる。 二条派を代表する歌人の一人にして未来の天皇妃の早逝という事実に、二条派一門には衝撃が走った。数多くの有力歌人によって哀傷歌が詠まれ、『続千載和歌集』などの勅撰集に入集している。特に、二条為世高弟「和歌四天王」の筆頭である頓阿は、家集『草庵和歌集』に、為子の死を悼んだ哀傷歌として、1首の独詠歌と、3組の贈答歌を残している。当時は、二条派と対立する京極派が巻き返した時期であり、為世の好敵手である京極為兼が主導して、勅撰集『玉葉和歌集』の編集を着々と進めていたこともなお一層、一門の悲嘆に拍車を掛けた。
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