尊氏の挙兵に参加
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鎌倉幕府滅亡後の建武の新政では、恩賞に播磨守護職を与えられながら、政争に巻き込まれ没収されるなど不遇であった事が知られている。これは朝廷内の権力争いの結果、護良親王派が三位局(阿野廉子)派に敗れた結果といわれる。同じく護良派といわれる楠木正成も戦功に比べ不遇であり、逆に三位局派の名和長年、千種忠顕等は新政の恩賞で厚遇されたという。また、共に倒幕戦争を戦った護良親王が建武元年(1334年)に失脚すると円心の新政における立場は失われた。恩賞の内容に激怒した円心は佐用庄へ帰っている。 これらの不満から建武政権と決別、建武2年(1335年)、足利尊氏が中先代の乱を平定する軍に範資と貞範を従軍させた。平定後、尊氏が鎌倉で建武政権から離反して京都に進攻、翌建武3年(1336年)に北畠顕家、新田義貞、楠木正成らの宮方に敗れて九州へ逃れた時も足利方に留まり、尊氏から改めて播磨守護職を授けられた。 以後は足利方として戦い、京都方面から進撃してきた義貞を総大将とする尊氏討伐軍6万騎を、播磨赤松の白旗城で迎え撃った。円心は、則祐を配した城山城などの城郭を播磨各地に築き、市川沿いに書写山を中心とする第一防衛線、揖保川沿いにを城山城を中心とする第二防衛線、そして千種川沿いに白旗城を中心とする第三防衛線をもうけて徹底抗戦した。さらに白旗城は、地理的に北方の美作国、但馬国方面、西方の備前からいくらでも支援が可能という強みを持ち合わせていた。そのため義貞率いる討伐軍は、円心以下2,000の兵が立て籠る白旗城を圧倒的な兵力を持ちながら攻めあぐね、3月から5月まで50日以上くぎ付けにされた。 その間、尊氏は多々良浜の戦いで菊池武敏を破り、九州を制圧。西国の武士を軒並み味方に加えながら、軍勢を海と陸の二手に分けて東上を開始した。足利軍東上の知らせに新田軍は撤退を開始するが、士気は極端に低下し、寝返りや足利軍への投降者が続出した。さらに、白旗城を出てきた赤松軍の追撃も受け、総崩れとなって兵庫まで逃げ延びた。尊氏は白旗城から撤退した新田軍に5月25日の湊川の戦いで勝利、翌年に範資が摂津守護に任命され、赤松氏は2ヶ国の守護となった。ただし、播磨には義貞の同族に当たる金谷経氏が残って播磨丹生山で挙兵したため、円心は延元3年/暦応元年(1338年)から興国3年/康永元年(1342年)まで範資・則祐と共に反乱鎮圧に費やすことになる。
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