尊氏の挙兵に参加とは? わかりやすく解説

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尊氏の挙兵に参加

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/28 10:07 UTC 版)

赤松則村」の記事における「尊氏の挙兵に参加」の解説

鎌倉幕府滅亡後建武の新政では、恩賞播磨守護職を与えられながら、政争巻き込まれ没収されるなど不遇であった事が知られている。これは朝廷内の権力争い結果護良親王派が三位局(阿野廉子)派に敗れた結果といわれる同じく護良派といわれる楠木正成戦功比べ不遇であり、逆に三位局派の名和長年千種忠顕等は新政恩賞厚遇されたという。また、共に倒幕戦争戦った護良親王建武元年1334年)に失脚する円心新政における立場失われた恩賞内容激怒した円心佐用庄へ帰っている。 これらの不満から建武政権決別建武2年1335年)、足利尊氏中先代の乱平定する軍に範資と貞範を従軍させた。平定後、尊氏鎌倉建武政権から離反して京都進攻、翌建武3年1336年)に北畠顕家新田義貞楠木正成らの宮方敗れて九州逃れた時も足利方に留まり尊氏から改め播磨守護職を授けられた。 以後足利方として戦い京都方面から進撃してきた義貞を総大将とする尊氏討伐軍6万騎を、播磨赤松白旗城迎え撃った円心は、則祐を配した城山城などの城郭播磨各地築き市川沿いに書写山中心とする第一防衛線、揖保川沿いにを城山城中心とする第二防衛線、そして千種川沿いに白旗城中心とする第三防衛線をもうけて徹底抗戦した。さらに白旗城は、地理的に北方美作国但馬国方面西方備前からいくらでも支援が可能という強み持ち合わせていた。そのため義貞率い討伐軍は、円心以下2,000の兵が立て籠る白旗城圧倒的な兵力持ちながら攻めあぐね、3月から5月まで50日以上くぎ付けにされた。 その間尊氏多々良浜の戦い菊池武敏破り九州制圧西国武士軒並み味方加えながら、軍勢を海と陸の二手分けて東上開始した足利軍東上知らせ新田軍は撤退開始するが、士気極端に低下し寝返り足利軍への投降者が続出した。さらに、白旗城出てきた赤松軍の追撃も受け、総崩れとなって兵庫まで逃げ延びた。尊氏白旗城から撤退した新田軍に5月25日湊川の戦い勝利翌年に範資が摂津守護任命され赤松氏は2ヶ国の守となった。ただし、播磨には義貞の同族に当たる金谷経氏残って播磨丹生山挙兵したため、円心延元3年/暦応元年1338年)から興国3年/康永元年1342年)まで範資・則祐と共に反乱鎮圧費やすことになる。

※この「尊氏の挙兵に参加」の解説は、「赤松則村」の解説の一部です。
「尊氏の挙兵に参加」を含む「赤松則村」の記事については、「赤松則村」の概要を参照ください。

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